母・金紅珠に会いにいく―金満里さん、20年ぶりに東京で「ウリ・オモニ」を上演へ
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2月8~11日・下北沢 ザ・スズナリ
「劇団態変」主宰の金満里さんが、ソロ作品「ウリ・オモニ」を20年ぶりに東京で上演する(2月8~11日、下北沢 ザ・スズナリ)。
満里さんは、伝統芸能の名手だった母・金紅珠さんが他界した1998年にこの作品を創作し、「オモニと出会いなおしてきた」という。作品への思いを大阪で聞いた―。(瑛)
金満里さん(大阪市で)
●1911年生まれの母・金紅珠さんは朝鮮古典芸能の大家。家でのオモニは、母というよりも、芸人としての印象が強かったという。
(金満里さん)
母は、生きていれば108歳。亥年です。母の父親である祖父は芸事が大好きで、芸能一座が村に巡業に来るたびに芸を覚え、しまいには家や妻を残して一座についていってしまった。
祖父には娘が3人いて、一番上の娘は金緑珠といってカヤグム併唱の名手でした。母は二番目の娘で、上の姉とは年が離れていたものの、姉の芸を見ながら幼い頃から芸に親しみ、6歳でソウルの舞台に立ちます。舞踊・楽器・歌にも秀でていた母は「天才少女の出現」と騒がれたようで、姉の活躍していた一座で活動を始めます。
巡業のないときは親子で故郷に帰り、祖父は学校にも行かせたようです。当時、女の子が勉強することは珍しいことだったので、男の子の服を着せてね。しかし、姉が当時芸人の中で流行っていたモルヒネに手を出すようになり、心配した祖父は姉から母を引き離し故郷へ戻ります。やがて長姉は命を落とし、妹は幼くして病死したので母は一人っ子に。そして17歳で祖父が決めた人と結婚しました。
その夫は黄熊度という名の独立運動家でした。朝鮮全土に広がっていた万歳運動(1919年)に呼応し、固城で演説をしたことで懲役刑を受け、投獄されました。住民の嘆願書で減刑となり出獄した後は、生きていくために日本へと渡り、大阪日日新聞の記者になります。しかしこの仕事は長く続かず、35年ごろに故郷から母を呼び寄せ、「黄金座」という一座を結成し日本全国を巡業しました。
当時、朝鮮の古典芸能を専門にする劇団は珍しかった。母は劇団の看板女優でした。黄さんは手腕の人で、同胞が強制連行された炭鉱労働の現場や日本軍の慰問にも行っていました。当時は植民地時代で、官憲の目を盗んで舞台をやるので、母が踊っていたりカヤグムを弾いているときに幕が降りることもあった。母は、「その時が一番悔しかった。情けなかった」と言っていました。
古典芸能の名手だった金紅珠さん(提供=金満里さん)
●金紅珠の夫・黄熊度は、戦後まもなくして亡くなり、母は一家の主に。2人には9人の子どもがいた。
夫亡き後に一座は解散し、母は男親の違う子として私を産み落としました。当時母は42歳、私は10人目の子どもでした。おそらく母は初めて、自分の意志で子を生んだのだろうと思います。
私は母の溺愛を受けます。幼児で踊りに秀でていたので、自分の跡取りにと思っていた。しかしその娘が3歳でポリオに罹り全身が小児マヒの重度障碍児となった。ショックだったでしょうね。
私は7歳から施設で暮らし始めるのですが、母は会うたびに私の足をさすってね。私の足は血のめぐりが悪いからとにかく冷たいんですよ。病院で「親がもんだるのが一番だ」と言われたらそればっかり。一生懸命もんでいたら、そのうちに動くようになると思っていたようです。
劇団が解散した後、母は金紅珠古典芸術研究所を立ち上げ、家で芸を教えていました。日本で古典芸能をしている人が少なかったので、今里の朝鮮学校や東京にも教えにいき、弟子も多かった。家では大黒柱ですからデンとしていましたね。たたずまいや価値観は、生粋の芸人。子育てや家の仕事は劇団員やお手伝いさんに任せ、私が生まれる前はオムツも替えたことがなかったそうです。
カヤグムを弾く金紅珠さん(提供=金満里さん)
●10年の施設生活の後、障碍者運動との出会いをきっかけに、満里さんは24時間ボランティア介護の自立生活者になる。21歳で家を出る決心をしたとき、母が言った言葉を忘れることができない。
「おまえのやろうとしていることは、朝鮮が日本から独立しようとして、独立運動をしたのと同じ意味がある」―。
「おまえがおまえとして生きるために、親を捨てていこうとするのは、おまえの立場とすれば当然のことだ」―。
私生児としての私が娘として母と対立し、反対を押し切って母の元から去り、障碍者として家出をする―。母は阻みきれない娘の道理、母娘関係という負の連鎖を断ち切るには、自国の朝鮮半島が日帝支配時代の酷い圧制に抗して起こった朝鮮独立運動と、娘のやろうとする障碍者運動が同質だという理解にいたったのです。
私が生まれた後、周りの大人は私を「金紅珠の跡取りにできる」と思っていたし、オモニもそれを望んでいた。しかし、障碍者になったことで私はそのレールから外れた。私もオモニの存在が大でありながら、御旗にする気はなかった。親の死に目にもあえないという大きな決断をして家を出ました。
●1983年、金満里さんは全員が身体障碍者の「劇団態変」を立ち上げる。
母が一度、私の舞台を見に来たことがあります。感想を聞くと、「かわいそうやんか。見てられへん」と。
重度障碍者がそこで動いていることが、「芸術で前衛なんだ」という所は、ついぞ分かってもらえなかった。
態変の芸術は、「古典の目」では到底理解できないと思う。オモニが障碍者になっても、「こうはならんかったんやろ」って思いますね(笑)。
私は母の古典芸能とは別のところで独立独歩で、アバンギャルドな芸術を開拓したことで、女と障碍者が捕えられてきた「二重の軛」を断ち切ることができました。
それでも、常にオモニは私の中にいたし、私は違う形で母の「魂の継承」を受けていると感じます。
今回演じる「ウリ・オモニ」は母の死に向き合って作った「葬送の舞」。母の踊りは見たことがなく、自分にとっては「幻の舞」です。
舞台では、他の追随を許さなかったという母の僧舞を演じる場面があります。
母があの時代に、民族芸能にこだわり、それを貫いたのは、自分を否定してくるものを、「余計にやらなあかん」と思っていたから。古典芸術家として母の姿を想う時、一番「粋」な所をわかってほしかったんだろうと思います。
今まで「ウリ・オモニ」を演じるときは「オモニ、これどう思う?」と問うてきましたが、今はオモニと一体になっている。私が金紅珠で、金紅珠が私という感覚です。
オモニが60代の時に「国に帰りたい」って言ったことがありました。その言葉がものすごくショックでね。不思議なことに、今はその気持ちに私がどんどん近づいてきている。故郷に帰りたい、帰ってみたいって。
1998年に上演された「ウリ・オモニ」(提供=劇団態変)
●金満里ソロ公演「ウリ・オモニ」
古典の歌、舞、楽器に秀でた芸人・金紅珠は、母国が侵略を受けるなかでも民族の魂である芸能を上演し続けた気骨の人だった。本作によって金満里は母の古典芸能のスピリットを自ら創造してきた身体表現に取り込む。全5場。1場:暗夜の胎児、2場:母と児の絆、3場:宇宙の種、4場:満里の僧舞、5場:愛の会話。監修は世界的な舞踏家の大野一雄(1906-2010)、振付は大野慶人。
◎日時
2月 8日(金) 19:00★/9日(土)14:00/10日(日)14:00/ 11日(月祝) 14:00★
※受付は開演の1時間前から、開場は30分前/★の回にアフタートークあり
8日= 保坂展人氏(世田谷区長)×金滿里
11日=姜信子氏(作家)×金滿里
※8日公演のみ、劇団扱いの予約は終了。下記のザ・スズナリへ問合せ下さい。
◎場所:ザ・スズナリ(小田急線・京王井の頭線「下北沢駅」徒歩5分)
◎チケット:〔前売〕一般4000円、障碍者・介助者3000円(ザ・スズナリ扱いのみ)、22歳以下・シルバー3000円(劇団扱いのみ)
詳細はhttp://taihen.o.oo7.jp/upcoming.html
金滿里のブログ更新中 https://kimmanri.exblog.jp/
チケット予約:劇団態変office イマージュ(℡06・6320・0344)/下北沢ザ・スズナリ(℡03・3469・0511)