止まらぬヘイトスピーチと、日本の良心
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3月9日、京都朝鮮初級学校襲撃事件10周年を祝う、という名目で人種差別主義者によるヘイトデモが白昼堂々と行われ、続く11日には、福岡県の折尾駅前、それも折尾交番前で日本第一党を名乗る10人がヘイトスピーチを行うという暴挙が起きてしまった。ヘイトスピーチ対策法(HS対策法)が16年6月に施行されるも、日本社会でヘイトデモは減ることはない。
3月20日に東京・永田町の衆議院第2議員会館で行われた「人種差別に終止符を。国際社会からの声」と題した集会で、師岡康子弁護士は、人種差別撤廃基本法およびそれに基づく基本方針、基本計画が必要だとHS対策法の問題点を指摘。警察官、検察官、裁判官を含む法執行機関職員に対し、ヘイトクライム及びヘイトスピーチ解消法に関する犯罪の人種差別的動機の認定、告訴受理及び事件の捜査・起訴のための適切な方策を含む研修を行うことを提案した。
ヘイトデモを警察が守る、という信じがたいことがこの日本で起きている。
日本政府は、日本が1995年に国連の人種差別撤廃条約に加入して20数年がたった今も、差別を禁止する基本法や被害者を救済する国内人権機関を設けていない。出自を攻撃する差別行為は、人々の人格を破壊し、ひいてはこの社会をも壊していく。年金事務所の所長、政治家の差別発言は後を絶たない。政府はいつになれば本腰を入れてこの問題に取り組むのだろうか。
…いつまでも「中立」を言い訳に、実態に即してものを見て適切な判断を下す、ということから逃げてはいけない。中立であろうとするのなら、それはその都度、更新され続ける能動的で積極的な態度でなければならない。さもないと、「中立」というのは安全地帯から観客気取りでコメントしているにすぎない。この社会で生を営む以上は好むと好まざるとに関わらず、公共性の高い事柄からは無関係ではありえない。「差別はいけないものである」というかなりの程度まで確立している道徳規範がある中で、あえて自分はこの問題について「中立」であると言うのなら、それはよほど道徳的に鈍感か知的に怠慢かのどちらかであろう。
Https://subtler.jimdofree.com/on-being-neutral/?fbclid=IwAR3c_tIqXfaiSzttRo8jGGb5B2r0b3tyXrsVHNSjAzrTP3E-0t1diW2iGk4
上に紹介したブログは、3月9日の京都でのヘイトスピーチの現場にいた日本の方が発信していた文章だ。
筆者はヘイトスピーチを中立を装って報じるメディアを批判する。中立の立場に固執するあまり、起きていることを正確に説明できないのはジャーナリズムとして失格だと。
10年前、京都朝鮮第1初級学校の児童や教職員、保護者を深く傷つけた暴挙を「祝う」という神経はどこから来るのか。
差別行為を行う者への怒り、何よりそれを座視する日本社会に恐怖を覚える。しかし、カウンターの方が書いたこの文章を読んで気持ちが落ち着いていった。シットインしてヘイトデモを阻止しようと踏ん張る市民たちの姿に救われた。
法務省人権擁護局は3月20日までに、統一地方選の期間中、立候補者やその支援者による選挙運動名目のヘイトスピーチが危惧されている問題で、選挙運動で行われた差別的言動について「直ちに違法性が否定されるものではない」との見解を各地方法務局に通達した。人権侵犯事件の対象として対応を求めるもので、各自治体にも周知し、見解を共有していくとしている。(神奈川新聞から)
折尾駅では、通達が出される前に事件が起きてしまった。政府、メディアは危機感を持つべきだ(瑛)。