「北朝鮮にも普通の人々の普通の生活があった」
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朝鮮民主主義人民共和国を初めて訪ねた日本人がよく書いたりする感想です。訪朝記などで、これまで何度も目にしてきました。このような感想を読むたびに、そんな当たり前のことをなぜ書くのかと考えてきました。
訪朝記を発表する日本人は、どちらかと言えば朝鮮に理解のある人が多いのでしょうし、日本で日朝友好や朝鮮学校支援の活動に取り組んでいる人たちも少なくありません。
そのような人がこのような感想を書くのは、日本における朝鮮のイメージ、情報が偏見に満ちたものであることの裏返しだと言えるでしょう。そのほとんどの原因はマスコミが作っています。朝鮮を揶揄したり、おどろおどろしいイメージを込めたものであったり、特殊で日本社会とはかけ離れた社会であるかのような報道がなされています。完全に間違った報道も多いですね。
人間が住んでいるところではだいたい、寝て起きて食事し学校や職場に通う、恋愛もするし喧嘩もする、泣いたり笑ったり、といった普通の生活があるものです。にもかかわらず、「普通の人々の普通の生活があった」という感想を書くのは、それほど日本社会に住む人たちの朝鮮に対するイメージが歪められていると考えているからなのでしょう。
この感想を見てまた思うのは、「普通」とは何かということです。自分の住んでいる社会を尺度にしたものにすぎないのではないでしょうか。
世界にはいろんな社会がありいろんな人間が住んでいます。若いころに本多勝一さんの「カナダ・エスキモー」という本を読んで、日本社会とずいぶんと違う生活の描写に夢中になったことがあります。
私が朝鮮に初めて行ったのは35年ほど前ですが、初めて見た朝鮮は、もちろん普通の人たちの普通の生活もあったけれども、ずいぶん日本社会と違うなという印象を持ちました。社会制度の違いからくる、住民の考え方の違いが一番大きかった。その後も何度か訪問しましたが、行くたびに日本社会との違いを感じます。
「北朝鮮にも普通の人々の普通の生活があった」という感想は、歪んでいた朝鮮に対するイメージが修復されたことを表現したものなのでしょう。本当に朝鮮を初めて訪問しカルチャーショックを受けたという人も少なくないのですが、多くの人は私が書いたように、人々が暮らしている社会には普通の日本と同じような生活があることもわかっているはずです。朝鮮に対する偏見を拡散し敵対視する日本を批判するために、あえてこのような感想を書いていることがほとんどです。また、そのような感想を書いた人たちも、日本との違いも同時にたくさん感じとったことでしょう。
そもそもそんな歪んだイメージを持たなくていいように、お互いに自由に行き来でき正しい情報が伝わる関係に、一日も早くなることを願います。共通点も相違点もみんな含めて、お互いを理解し合うようになれればと思っています。
朝鮮に対する歪んだイメージは、それにより利益を得る人たちが意図的に作り出したものです。そんな人たちの存在は、朝鮮にとっても日本にとっても、不幸しかもたらしません。(k)