料理はギャンブルだ
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このまえ6年振りの自炊に挑戦したのだが、味噌汁、主食、副菜、主菜を作るのになんと2時間もかかってしまった。そのうえ肝心の味も微妙で、非常に残念な結果となり食べ終えて早々、失意の就寝となった。
作ったものはどれもSNSで絶賛されていたレシピばかり、分量や工程も忠実に再現したつもりなのだが、(ん…? なんか…?)と今ひとつハッキリしない味に。だからといって臨機応変に何かの調味料を足せるほどの経験も感覚もないため、不本意ながら食卓について言葉少なに食べ終えた。もはや作業である。
初見のレシピは出来上がりの味を想像できないまま作るため、どこに着地するか分からない。料理はギャンブル以外の何物でもないな、と恐ろしく感じた。
―という話を、連載「2世とつくる朝鮮料理」でお世話になっている高さんにお話ししたところ大笑いされた。高さん曰く、慣れてくればレシピを見ただけでどんな味になるかだいたい分かるのだそう。あら正反対。
しかも、「このレシピだとちょっと塩気が足りないんじゃないか」とか「この工程を先にしたほうが効率的」といった、“レシピの粗”まで発見してしまうというのだから、毎回を博打と捉えて乗り越えようとしていた私からしたら本当にすごい。
この連載のコンセプトは、「料理の得意な同胞にレシピを紹介してもらうだけでなく、下ごしらえから完成までの工程を記者が実際に体験し、疑問点や感想も入れつつ作り方を紹介する」というもの。これまでの取材を通して気づいたのは、レシピは目印でしかないのだなということだ。
例えば駅のホームで別の沿線へ乗り換えようとしているとき。沿線のマークや乗換えの表示はひらけた場所や分かれ道など要所要所にしかなく、目的地までずっと矢印が引かれているわけではない。初めて行く場所だと、ちょうど表示の切れ目で迷うことが案外多い。
レシピも同様で、大枠の動きは教えてくれるが、行間で生まれうる迷いに対する道しるべは意外と省略されていたりする。次の工程につないでくれるのは、作る側の経験か、電話口で呆れるオモニの声だけである。
ちなみに先日の連載取材ではキムパプの作り方を教わった。高さんの丁寧な案内、そしてとっておきのレシピのおかげで初めて作ってもおいしくできた。せっかくなのでその日、帰宅後にレシピを見ながら一人で再チャレンジ。まだまだ手際が悪く時間はかかったもののどうにか完成し、自分としては満足のいく出来となった。
※写真は、上が高さんと一緒に作ったもの:撮影=(麗)さん/下が帰宅後に一人で作ったもの
具はキュウリ、ニンジン、沢庵、牛肉炒め、大葉、薄焼き卵。大葉がいいアクセントになっている。レシピの詳細は、少し先になるがイオ10月号に掲載(ちなみに9月号は갈치조림=太刀魚と大根のピリ辛煮)。工程の写真つきで理解しやすく、鶏肉を調理前に洗うのかどうかも分からなかったような人間でも無事に作れました。ぜひチェックしてみて下さい。(理)