緊急シンポジウム「表現の不自由展・その後」中止事件を考える
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8月1日に開幕した「あいちトリエンナーレ2019」で開催されていた「表現の不自由展・その後」が脅迫などによって4日で中止となったことを受けて、緊急シンポジウム「『表現の不自由展・その後』中止事件を考える」が8月22日に東京都文京区の文京区民センターで開かれた。
会場に集まったのは約500人。会場はあっという間に満席となり、追加の座席も準備されるなどの盛況だった。
すでに何度も報じられているが、「表現の不自由展・その後」は、日本全国各地で展示が中止になったり、展示に圧力を受けたりした作品を集め、日本における表現の自由について問題提起するために企画されたものだ。「平和の少女像」や、昭和天皇の写真を燃やす作品にテロ予告を含む抗議、脅迫の声が殺到し、開催3日目で中止が決まった。
この日のシンポジウムを主催した8.22実行委員会の篠田博之さん(『創』編集長)は、「(展示の中止は)日本の表現の自由を象徴している。このまま放っておくと、どんどん暴力によって表現をつぶすということになっていく。何としてもそうならないようにしなくてはいけないというのが今日のシンポジウムの趣旨」とのべた。
シンポジウム第1部は、「何が展示され何が起きたのか」と題し、出展していた美術家らが報告した。第2部では、討論「中止事件をどう考えるのか」と題し、ジャーナリスト、作家らが登壇した。
開催から日が経ってしまったが、この日の発言の中で印象に残ったものを以下に紹介する。
●安世鴻さん(写真家)
※日本軍の慰安婦にされ、中国に残された朝鮮人の女性たちを撮影した写真作品「重重」を出品。この作品は元々、2012年に新宿ニコンサロンで展示されるはずだったが、開催1か月前に突然中止が決まった。結局、仮処分申請によって開催はされたが、在特会など多くの右派勢力が妨害に来た。大阪ニコンサロンでの展示は中止された。安さんはその後3年にわたる裁判で勝訴し、2015年には東京・練馬のギャラリーで開催された「表現の不自由展」にも出品した。
あいちトリエンナーレで起こった今回の事件は、7年前の出来事と決して違わない。事態は7年前よりもっと悪化している。4年前の裁判の判決では、ニコンはいち民間企業だが、公共の場で報道の自由を守らなくてはいけないという内容の判決文が出た。今回の事件では愛知県が行っている公共の行事でありながらこのような結果になってしまい、民主主義の退行を感じている。今回の展示中止で被害をこうむったのはアーティストだけではない。アーティストの権利だけでなく、見る人の権利も大切だ。みなが連帯して、展示の再開を願うとともに、私たちの知る権利、表現の自由を守っていかなくてはいけない。
●武内暁さん(「九条俳句」市民応援団)
さいたま市の公民館の公報に載るはずだった市民の俳句「梅雨空に『9条守れ』の女性デモ」が公民館によって掲載拒否された事件の裁判を4年たたかった。私たちの表現とは何なのか、私たちの権利とはなんなのか。当たり前のことが言えない息苦しさに風穴を開ける。小さな声だが、本当の意味で表現の自由を勝ち取る、息苦しさに風穴を開ける、そういう社会を作るためには絶対中止にしてはならない。今回の中止も、抗議声明だけで終わらず、再開を目指す。ここで再開を勝ち取らなければ、レイシズムやヘイトの問題に屈することになる。
●岡村幸宣さん(「原爆の図丸木美術館」学芸員)
※東京都美術館で開催された『第18回JAALA国際交流展-2012』に「平和の少女像」のブロンズ製のミニチュアが出品されたが、美術館側が「政治的主張の強い作品の展示を禁止した使用規定に該当する」という理由で展示を終了。主催団体のJAALA(日本アジア・アフリカ・ラテンアメリカ美術家会議)は「表現の自由を侵害する」と反発したが、受け入れられなかった。「平和の少女像」のミニチュアはその後、埼玉県東松山市にある丸木美術館の『今日の反核反戦展2012』に出品された。
丸木美術館は公益財団法人に認定されている。公益性を持った展示をするよう定められている。河村名古屋市長や菅官房長官とは認識が違うかもしれないが、公益性を持つ場所というのは国の意見の代弁者ではなく、多様な意見を、少数派ではあるが重要な意見の発表の場を担保する場だととらえている。そうした考えに基づいて、淡々と展示を受け入れたのはとくに勇ましい行為ではなく、学芸員として最低限守るべきことを守ったと認識している。
私もこの像を見るまでは『慰安婦像』という記号で見ていた節がある。しかし等身大の像を見て隣に座った時に、記号的なものが溶けていくような気持ちになった。頰も赤みが差していて、血が通った一人の人間として作品を向き合えた気がした。
女性という存在が歴史的に受けてきたであろう理不尽な抑圧、ぎゅっと手を握り締めてそれに耐えているような感じを受けた。私はこの少女に対して何ができるだろうか、という普遍的な問題を感じることができた。
必ずしも反日というレッテルによって消費されるべき作品ではない。昨今の動向として、非常に単純な記号化をされる。繊細で複雑な文脈を読み解こうとしないで、非常にシンプルな記号化の中で議論が暴走していく。そういうことが近年感じられて、そのことに対して危惧している。これは表現の自由の問題ではあるが、果たして表現の自由の問題だけなのか。振り返りたくない歴史を直視しない空気が蔓延している。
●森達也さん(作家・監督)
河村市長の「日本人の心を踏みにじるような表現」という言葉を受けてネット上などでは「表現は人を幸せにするもの、にこやかにするもの」「人を傷つける表現などあってはならない」という意見がずいぶんあった。では、丸木美術館の「原爆の図」「水俣の図」は人を幸せにするのか。ピカソの「ゲルニカ」は人を幸せにするのか。松井・大阪市長は「われわれの先祖がけだもののように扱われている、こんな表現はやるべきではない」と言ったが、ゲルニカが飾られているのは国連安保理の会議場だ。ゲルニカに対して今のドイツが「われわれの先祖がけだもののように扱われているので、絵を撤去しろ」といったらどう思われるか。同じことを日本がやっている。
美術だけではなく、近年、映画もいろいろな作品が上映中止になっている。昔と今、何が変わったのかというと、セキュリティ意識の高まりだ。不安と恐怖が強くなり、万が一が起きたらどうするのかという言葉にみな抗しきれなくなっている。万が一などいつでも起きうる。不安と恐怖はどんどん飽和する。「万が一中国や北朝鮮が攻めてくるのではないか」「万が一ミサイルが落ちて来るのではないか」、仮想敵がどんどん増えていく。これを利用するのが政権であり、メディアだ。
●香山リカさん(精神科医)
今回の問題に関しては、「表現の自由」は結果の問題であって、そもそもレイシズム、韓国ヘイトの成れの果て。ここ15年~20年、在日韓国・朝鮮人に対する排外主義、歴史修正主義の高まりの動きの結実として、今回の「平和の少女像」に対する集団ヒステリーのような反応が起きている。政治はここ10数年間、レイシズムに関しては一部の政治家を除いて傍観してきて利用してきた。
中止事件と関連して9月6日に、あいちトリエンナーレ《表現の不自由展:その後》中止を許さず再開を求める緊急院内集会が衆議院第二議員会館で行われる(14:00受付開始、14:30開会)
http://www.labornetjp.org/EventItem/1567326724089staff01
(相)