「ケアレス・マン」があふれる社会
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職業柄、さまざまなジャンルの書籍に目を通す。
先日読んだ『呪いの言葉の解きかた』(上西充子著、晶文社、2019)は、日常のさまざまな場面で人びとの思考と行動を知らず知らずのうちに縛っている「呪いの言葉」の正体を暴き、その呪縛の外に出るための実践を提示している本だ。
本書の第3章「ジェンダーをめぐる呪いの言葉」の中で、「ケアレス・マン」という概念が紹介されていた。
労働法学者の毛塚勝利・朝倉むつ子・浜村彰3氏による座談会「いまなぜ生活時間なのか?」(『労働基準旬報』No.1849、2015年10月号)の中で朝倉氏がこの言葉を紹介しているのだが、もとは社会学者の杉浦浩美氏が『働く女とマタニティ・ハラスメント―「労働する身体」と「産む身体」を生きる』(大月書店、2009年)の中で使っている言葉で、「他人のケアに責任を持つことなど想定外であるような労働者」という意味だ。
朝倉氏は、日本では職場の労働者のモデルが「ケアレス・マン」であり、さらに、男性が誰かのケアをしていないだけでなく、自分のケアを誰かにしてもらっている存在なのだと指摘する。たとえば、妻が育児や介護を担っていれば、夫である男性はそれらのケア労働から解放される。さらに、妻が炊事、掃除、洗濯、その他日常の家事のタスクもこなしてくれれば、夫は自らの時間を最大限、仕事のために捧げることができる。
しかし朝倉氏は、「ケアレス・マン」を職場の労働者のモデルとすることは3つの意味で問題だと指摘する。第1に、働き方が「ケアレス・マン」のレベルに達していない労働者(たとえば、病気や障害のある労働者、妊娠・出産する労働者、家族のケア責任を抱える労働者など)が排除されたり、「二流労働者」と評価されたりしてしまう。第2に、ケア労働は生物としての人間にとって不可欠の労働であるにもかかわらず、それが女性に不均衡に押し付けられていることによって、女性の有償労働の権利が侵害されている。第3に、労働者自身が、健康を維持し、市民的活動に参加する時間を奪われる。
上記のような議論を紹介した後、著者の上西教授は次のように言う。
誰もが自分の健康を維持する時間を必要とし、多くの者が身近な誰かのケアをする時間を必要とし、人間的な生活を送るためには市民活動の時間も必要としているにもかかわらず、それらの時間を必要としない「ケアレス・マン」が職場のあるべき労働者モデルとして想定され続けている。
共働きは普通のことになってきたし、離婚もありうるし、死別もありうる。パートナーが病気になることも、障害を負うこともありうる。そういう事態を「十分にありうること」と想定して、それを許容し、対応できる職場であるのか。それとも、そういう事態に陥った者を排除し、困難の中に孤立させる職場であるのか。今の日本の職場は、まだ後者であるように思える。労働者は生活者でもあるということに目を向けず、「働く以上は」と仕事への献身を求め続ける。
そうでない職場を、そうでない社会を実現させることは負担だろうか。「ケアレス・マン」として生き続けることは、苦しいことなのではないか。(本書111ページ)
最近、第一子誕生という人生の重大イベントを経験したこともあって、本書を読んでさまざまな気づきを得た。「ケアレス・マン」があふれかえる社会の維持に貢献してきたこれまでの生き方にも根本的な反省を迫られている。(相)
ケアレス・マンという和製英語は、久場嬉子「『男女雇用機会均等法』から『男女共同参画社会基本法』まで」『ジェンダー白書2 女性と労働』(明石書店 2004年)が初出のようですよ。