イオの編集作業を振り返って
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2018年3月、月刊イオの記者になり、初めての取材は池袋で行われた朝鮮総聯銃撃事件に抗議する青年たちの街頭宣伝だった。
初めて扱う一眼レフカメラ。取材の前に30分ほど基本的なレクチャーを受けたが、初取材に頭がいっぱいな自分は、レクチャーのことなどとうに忘れて「フラッシュを炊いとけばなんとかなるだろう」とシャッターを押し続けた。
入社して間もない頃、板門店で北南首脳会談が行われ、板門店宣言が発表された。
統一に向け北南朝鮮が大きな一歩を踏み出したことに沸く同胞社会を、さまざまな現場で取材し、この職業に就くことができて良かったと嬉しさをかみしめた。
地方での初めての取材は、群馬での朝鮮学校の取材だった。夜に取材が終わり帰路につく途中、電車事故で、長い時間足止めをくらった。自宅に着いたのは深夜だったこともいい思い出だ。
初めての出張は入社して半年が経った頃。北海道・函館だった。初めて足を踏み入れた地域に興奮しながらも、同胞が少ない中でも同胞社会を守り抜く姿に胸が詰まった。
東京朝高サッカー部や大阪朝高ラグビー部の試合の取材を通じて、写真撮影の楽しみを覚えた。イオはカラー雑誌なので、その分写真のスキルが求められる。文章はもちろんのこと、写真を通じて、試合の状況、選手たちが背負うものや心構えを伝えたくて、腕を上げるため、たくさんの資料を参考にした。
これまで何よりも嬉しかったのが、様々な現場で同胞や日本市民、児童・生徒たちに顔を覚えてもらったこと。
初めて足を運んだ地域や現場で、新米記者だと伝えると寂しい顔をされたり、反応が薄いときもあった。しかし、何度も足を運ぶことで、「また来たんかー!」「この前、記事ええ感じにまとめてくれてたな。良かったで」「今回もしっかり頼む!」と、期待を寄せてくれた。
記事を通じてなのか、偶然、取材現場に居合わせた回数が多かったからかはわからないが、顔と名前を覚えてもらったときほど、やりがいを感じたことはなかった。
このブログ「日刊イオ」を通じて、読者に元気を届けたいとアップした記事(例えば上述の試合であったり、高校無償化裁判に関する記事など)が、多くの方々にSNSで拡散されるたび、反対に自分が力をもらった。
2018年5月号の小さな記事の執筆から始まったイオの編集作業も、2020年5月号の締め切りをもって終わりを迎える。20年5月号の特集は「つなぐ、在日ラグビー」。自身が企画したものだ。読み応え十分な内容となっているので、ぜひ読んでほしい。
多くの方々に迷惑をかけながらも、あたたかく支えてもらった2年間だった。5月号の締め切り日を機に、「朝鮮新報」の記者として新たな現場へ旅立つ。
読者の皆さん。また朝鮮新報やイオの誌面でお会いできることを楽しみにしています。2年間、ありがとうございました!(全)
※写真は2年間の取材ノート。多いのか少ないのかわからない(笑)