父の三回忌
広告
9月末、父の三回忌を墓前で行った。
京都生まれの父には6人のきょうだいがいて、遠方の叔母夫婦や、結婚が決まった従妹も同席してくれて温かい席になった。
わが家は、チェサ(祭祀)という形はとらず、墓参りをした後、食事会を持つことにした。墓前には祭祀で供えるような、蒸豚、魚、ナムル、チヂミ、果物などを置き、クンジョルをする。
食事会では、生前、「祭祀という場を残された家族が互いに顔をあわせ、交流する機会にしたい」という父の考えが伝えられた。20年前に亡くなった祖父の祭祀への思いだ。
また、「近いうちに朝鮮に帰国した叔父にきょうだいの誰かが会いに行ったら、喜ぶでしょう」という話も出た。おなじく朝鮮にきょうだいが帰国した母の口から親戚に託された言葉で、生前に父が叔父とやりとりした手紙も手渡された。
朝鮮に暮らす叔父は、現地の女性と結婚し、今は地方都市で隠居生活を送る。
その叔父は私が生まれた1972年に帰国、赤ちゃんだった私を抱いた後、船に乗ったという話を聞いていたせいか、17歳で初めて平壌で会ったときは、涙が止まらなかった。その叔父との連絡は父がおもに担っていたものの、最近は朝鮮民主主義人民共和国への制裁が増すなか、誰も会いに行けていない。さらにこのコロナ禍で、手紙のやりとりすら難しいと聞く。日本にとって一番の隣国・朝鮮。国交がないという現実に加え、日本の対朝鮮制裁がその壁をさらに高くしているのだ。
「父の死」をようやく受け止められるようになった、と長い1日を終えて思った。
仕事や家庭のことで、何か悩みがあれば、短い言葉でアドバイスをくれた父は、考え方がとてもシンプルで、話すと自分の中の邪念が飛んでいくような感じがあった。
「人は一人で生まれて、一人で死んでいくんだよ」。亡くなる数日前だったか、父を病院に見舞った7歳の息子に、母がこんな言葉をかけていた。
死ぬ姿は、生きる姿を見せることだ、と気づいた2年前を思いだす。
また、最後、闘病する父のそばにいたいという、私のわがままを聞いてくれた上司と同僚たち、家族の存在とありがたさも。
コロナ禍のなか、通常の見舞いすら叶わないと聞く。闘病する本人はもちろん、家族もどれほど辛いだろうか。
たとえ限られた時間であっても、互いの顔を見ることが叶い、親子、きょうだい、友人との間に何かが通いあい、双方に生きる力が生まれることを願わずにはいられない。(瑛)