常磐線途中下車の旅(3)
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「常磐線で行く福島浜通り縦断の旅」の報告の3回目。
第1回 https://www.io-web.net/ioblog/2021/02/02/84218/
第2回 https://www.io-web.net/ioblog/2021/02/10/84260/
初日は上野からいわきを経て久ノ浜、末続、広野、夜ノ森まで進んだところで終了。2日目のプランは、いわきからいったん原ノ町まで行き、そこから富岡まで引き返して双葉→浪江とまた仙台方面に進み、再び原ノ町まで行き、そこからまたいわき方面へ引き返し小高まで。小高で作家の柳美里さんへのインタビュー取材をこなした後、常磐線に乗ってその日中に仙台入りするというもの。
なぜ、いわきから富岡、双葉、浪江と順に進まず、原ノ町まで行ってまた引き返すという面倒なルートを選択するのか―。それは、取材に直接必要ない荷物(着替えなど)を原ノ町駅のコインロッカーに預けるためだ。「では、途中下車する駅のコインロッカーを使えばいいのでは」と思う人もいるかもしれない。しかし、いわき以北の常磐線駅は原ノ町までコインロッカーが備え付けられている駅はない。富岡にも双葉にも浪江にも、それより手前の夜ノ森にも広野にもコインロッカーは存在しない。1週間分の着替えなどが詰まったキャリーバッグを引きながらカメラなどの機材も抱えて歩き回るのはきついので、面倒でも荷物を預けて身軽になる必要があるのだ。
旅2日目は、朝7時過ぎにいわき駅を出発。「座って原ノ町まで一眠り」と思っていたら、車内は結構混んでいる。東京都心のラッシュアワーには到底及ばないが、私が出勤で使うJR山手線外回り、午前9時半ごろの池袋―日暮里間と同じくらいには混んでいる。予想外だったので驚いた。車内を見渡すと、乗客の大半が制服姿の高校生だった。常磐線の上り電車に乗って浜通り地域最大の駅であるいわき周辺の高校へ通うのならわかるのだが、下り電車に乗ってどこまで行くのか―。高校生たちは結局、いわきから5つ目の広野駅で一斉に降りていった。
広野で乗客の8~9割が降りていった車内は一挙にガラガラとなった。
しかしその後、電車の遅延で原ノ町駅着が遅れ、本来乗ろうと計画していた富岡行きの電車を逃してしまう。次の電車が来るのは1時間半後。前日に立てた取材スケジュールが大幅に狂ってしまった。
出発時間まで原ノ町駅周辺をぶらぶらと散策。
駅前には、南相馬地域の有名な祭りである相馬野馬追の像がたっていた。
結局、富岡駅(双葉郡富岡町)に着いたのは正午前。
富岡駅は福島県で最東端に位置する駅だ。海からほど近い場所にあったため、2011年3月11日の東日本大震災では津波の直撃を受けて駅舎が流失。同時に、福島第一原子力発電所の爆発事故で駅一帯は警戒区域となり、立ち入り禁止区域に設定された。その後、駅周辺は2013年3月に警戒区域から避難指示解除準備区域に移行し、立ち入りが自由に。17年4月には避難指示が解除された。現在の駅舎は17年に元の場所から北に100メートルほど離れた場所に再建されたものだ。取材に先立って震災前の駅周辺の写真を見たが、今は駅周辺に当時の面影を探すことはできない。
高台から駅を見下ろすと、工事用の車両がひしめく堤防越しに太平洋の大海原が広がっていた。
駅から海の方面をのぞむ。津波にさらわれて更地となった一帯に工事の槌音が響いていた。
駅のホームからいわき・水戸方面を望む。奥に福島第二原発の煙突が見える。
次に向かったのは双葉駅(双葉郡双葉町)。
駅東口に降り立つ。駅舎は昨年3月のJR常磐線の富岡—浪江間の運転再開に合わせて新しくなったもの。駅前ロータリーも綺麗に整備されていた。しかし、真新しい駅の周辺には人影がまったく見当たらない。そのギャップに戸惑う。
新駅舎に隣接する旧駅舎の時計の針は地震発生直後の14時49分を指したまま止まっている。
駅がある双葉町は福島第一原発の5号機と6号機が立地していた自治体。駅自体も原発からすぐ近くの場所にある。福島第一原発の爆発事故の影響で全町避難となり、事故から10年が経とうとする現在も、駅周辺などを除く町の大半のエリアは帰還困難区域(除染や復旧工事関係者以外の一般住民の自由な行き来が終日制限される区域)のままだ。
駅に隣接するコミュニティセンターにある町役場で個人向けの積算線量計を借り、シェアサイクルで駅周辺の立ち入り可能エリアを回ってみた。
駅前ロータリーには、「ふたば、ふたたび☆」の文字が書かれた青い防火水槽が設置されていた。
駅のすぐ目の前にあるブロック塀に描かれたアート壁画。この場所にはかつてレストランがあったという。
駅前の駐輪場に設置されたモニタリングポスト。空間線量率は0.254μSv/h(毎時0.254マイクロシーベルト)となっていた。この数値を高いとみるか、低いとみるか。福島県外では0.23μSv/h以上で立入禁止、除染の対象になる。
地震で傾いた家が3.11当時のままの姿でたたずんでいる。今年2月13日の福島県沖地震を受けて、さらにひどい状態になっているのだろうか―。
シャッターがひしゃげた双葉駅近くの消防団の詰所は震災当時のまま放置されている。時計の針は地震発生直後の14時48分を指したまま止まっている。
駅から自転車で数分走り、国道6号線を越えると、双葉厚生病院や双葉町青年婦人会館などの施設が並ぶ通りに出る。もちろん閉鎖中で、人影はない。青年婦人会館の駐車場にあった車のタイヤはすべて空気が抜けていた。震災から10年という歳月の長さを実感する光景。
会館の敷地内に設置されたモニタリングポストの数値は1.382μSv/h。今回見たモニタリングポストの数値の中でもっとも高かった。
駅近くの道を走っていると、保育園があった。10年前から時が止まった姿を見て胸が痛んだ。
園の正門の掲示スペースは2011年3月の予定表が貼られたままになっていた。10年の歳月を経て紙は朽ち果てていたが、「3月11日 お別れ会・お誕生会」という文字を何とか読み取ることができた。あの日、双葉町も震度6の大地震に襲われた。ここにいた園児や大人たちはどのような思いで避難したのだろうか―。
地震の後片付けをする時間もないまま、何もかもそのままで避難したのだろう。主人公である子どもたちが消え去った保育園は、あの日から10年間、雨風にさらされながらここにたたずんできた。放射性物質で汚染され、朽ち果てていく保育園を見ながら、思わず涙がこぼれてきた。
インターネットで園のウェブサイトにアクセスすると、建物は今年4月に取り壊され、更地となることがアナウンスされていた。原発事故の記憶が刻まれた場所がまた一つ消えていく―。
街中に人影はないが、常磐線に沿うように走る国道6号線は車の往来が多い。原発の廃炉処理や被災地の復興事業などに従事する工事車両、建設車両が大半だ。
駅の西側では住宅用地の造成工事が行われていた。
駅を走る線路は単線なので、ホームも片側のみ使用されている。
双葉駅を出発し、原ノ町駅でコインロッカーに置いた荷物を回収、小高駅へ向かう。小高駅に着いたのは日没直前。小高は夜ノ森や双葉などと比べて、人びとの暮らしの匂いがした。夕刻の街の明かりを見ながら、ほっと一息ついた。
「常磐線で行く福島浜通り縦断の旅」の報告、次回が最終回です。(相)