「3.11」から10年〜この10年で変わったこと、変わらなかったこと
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東日本大震災からちょうど10年を迎える2021年3月11日にブログの当番が回ってくるのも何かの縁だろうか。
震災から10年を迎えるにあたって、イオ3月号で特集を組んだ。
「明日へつなげる ―3.11の記憶 東日本大震災から10年」
東日本大震災を経験した一人ひとりにそれぞれの「3.11」がある。宮城、福島、岩手の3県の被災した同胞たちや地域の朝鮮学校を訪ね、10年の歩みを取材した。
社会のまなざしからこぼれ落ちるマイノリティがあの震災をどのように生き抜いたのか―。一般的な震災取材は大小多くのメディアが取り組んでいる。では在日朝鮮人向けの月刊誌には何ができるのか、私たちにしかできないことは何なのか。そう自問自答しながら取材を進めた。
10年前に自分が書いた文章を読み返してみた。
被災地で記者は何ができるのか。この間、震災の現場に身を置きながら考え続けてきた。限られた時間、限られた条件の中での取材。現場で見たことがすべてではない、現場に身を置いたからといって物事の本質を正しく認識できるわけではない。でも、現場にいて初めて見えてくるものもある、そこにいた人間にしか伝えられないことがある。現地の人びとの声を丹念に拾って、彼らの悲しみや苦しみ、悩み、そして希望を読者に伝えること―。
こんな偉そうなことを書きながら、その後、継続的に取材を続けてきたのかというとそうではない。今回、宮城には9年ぶり、福島には7年ぶりに訪れた。
この間、ろくに足を運ばなかったくせに、10周年だから取材するのか―。そんな自己嫌悪にも似た葛藤があった。震災から10年に際して何かしらの企画は立てなければいけないと思いつつ、正直、はじめは消極的だった。それでも特集に取り組んだのは、「記録しなくてはいけない」という思いに背中を押されたからだ。
人も街も風景も、新しく生まれる一方で、消えていくものがある。あのとき何が起こったのか、人びとはそのとき何を考え、どう行動したのか、時が経つごとにどのような心境の変化があったのか、10年間どう暮らしてきたのか、いま何を思うのか、そして10年間で何がなくなり、何が残っているのか―。誰かが記録しないと忘れられてしまう。ましてや、10年前に被災地を訪れて、不十分ながらも取材をし記事を書いて発信した人間として、10年後もその責務を果たさなくてはいけないと思ったからだ。
震災のことは忘れたい、忘れたくても忘れられない、忘れ去られてほしくない―。現地の人々の思いは外部から来た取材者が考えている以上にはるかに多様で重層的だ。取材という行為を介して、記録する者と取材される者との間でどのような関係性が生まれるのか、またそのそれはいかにあるべきか―。「取材者の立ち位置」についても考えた。
これは震災から2年後の2013年に書いたことだが、その後、自分の中ではっきりとした答えが出たのかというとそうでもない。その時ごとに揺れ動きながら取材に臨んでいるとしかいえない。
次は震災翌年の2012年に書いた文章。
「絆」や「がんばろうニッポン」「一つになろうニッポン」という曖昧な共感を促すスローガンが社会を覆った。復旧、復興に団結、協力して取り組んでいくことに異存はない。しかし、そこでイメージされる「ニッポン」の定義には果たして何が含まれ、何が排除されているのか。その中に在日朝鮮人は入っているのだろうか。
元々、「一つに」とか「団結」というのが苦手だったのもあるが、東日本大震災の取材を機に、「絆」という言葉を使うのをやめた。正確には、2011年5月号に掲載した被災地ルポの見出しで使ったのが最後ではないか。発言を引用するなどカッコつきで使うことはあっても、地の文ではその後、一度も使っていないはずだ。
次は8年前の2013年に書いた文章。
今回の震災が「日本社会のあり方を根底から変えた」とよく言われるが、果たしてこれは事の本質をついた見方だろうか。震災が日本社会のあり方を変えた側面を否定しないが、その一方で、日本社会が本来内包していた矛盾や格差、対立などの構造がより浮き彫りになったとは言えないか。被災地の朝鮮学校にとってそれは、行政のあからさまな差別的施策やそれを(積極的にしろ消極的にしろ)下支えしている日本社会の無理解あるいは偏見として表出している。
今回の取材でも訪れた東北朝鮮初中級学校は震災直後に地方自治体からの補助金支給を打ち切られた。
埼玉朝鮮幼稚園に対するマスク不支給、朝鮮大学校の学生への学生支援緊急給付金の不支給など緊急事態におけるマイノリティ排除はコロナ禍の現在まで続いている問題だ。
上記の問題意識を深く掘り下げられなかったのが今回の特集における反省点だと思っている。