朝鮮人元BC級戦犯の李鶴来さんが亡くなった
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日本の植民地下にあった朝鮮半島に生まれ、第2次大戦後、戦争犯罪人として裁かれた朝鮮人元BC級戦犯の李鶴来さんが3月28日に96歳で亡くなった。
報道によると、3月24日、東京都内の自宅で転倒し、病院に緊急搬送されたあと、治療を受けていたが、外傷性くも膜下出血のため亡くなったという。
李さんは1942年、17歳の時に日本軍の軍属となり、映画『戦場にかける橋『にも登場するタイ-ビルマ間の泰麺鉄道敷設工事で捕虜監視任務についた。
1945年8月15日、バンコクで日本の敗戦を迎えた。その後、連合国側からBC級戦犯の容疑をかけられ、捕虜の虐待などの罪に問われて逮捕されると、47年にシンガポールの軍事法廷で死刑判決を受ける。その後、禁固20年に減刑された李さんはシンガポールから日本に移送され、東京の巣鴨プリズンに収監。日本独立4年後の56年に釈放された。朝鮮半島出身の軍人や軍属のうち148人がBC級戦犯として有罪判決を受け、23人が死刑に処されている。
1952年4月、サンフランシスコ平和条約の発効を目前に、日本政府は「朝鮮人は日本国籍を喪失する」と通達を出した。さらに、サ条約発効後、日本政府は自国の軍人らに対して補償を始めたが、日本国籍を喪失した李さんら朝鮮人軍人・軍属らは日本人として罪を負わされ、釈放後は外国人として一連の援護法から排除された。
李さんは朝鮮半島出身の元BC級戦犯とその遺族らで「同進会」を結成。日本政府に釈放後の生活保障や刑死者の遺骨の返還などを求めて運動を始める。李さんらの訴えに対して日本政府は、「日本国籍の喪失」や1965年の日韓請求権協定などを理由に持ち出し、補償措置から排除した。
李さんらは91年11月、司法の救済を求めて東京地裁に提訴。都合8年、最高裁まで争ったが、99年に敗訴が確定した。敗訴以降は、立法解決を促す最高裁の付言判示を踏まえて補償立法を求め続けてきたが、結局、実現しないまま李さんは亡くなった。
朝鮮半島出身で日本に残る元戦犯は、李さんが最後の一人だった。
これを不条理と言わずして何と言うのか。
超党派の国会議員らは、外国人元BC級戦犯とその遺族に対し、1人当たり260万円の特別給付金を支給する法案を準備しているというが、このような不十分な補償案ですら実現することのできない日本の政治とはいったい何なのか。
そして、歴史の狭間に落ちたまま置き去りにされ、一切の補償から排除されたのは朝鮮人元BC級戦犯だけではない。
李鶴来さんの自伝『韓国人元BC級戦犯の訴え―何のために、誰のために』(梨の木舎、2015年)には、上で書いたような李さんの歩んできた激動の半生がくわしく綴られ、被害者であり加害者でもある自らの過去と向き合う姿が描かれている。
今から7年前、戦後補償関係の取材で李さんをたずね、インタビューしたことがある。「死んでいった仲間たちの無念を晴らしたい。日本政府には、日本国籍がないために一切の補償や援護から排除されるという不条理をただしてほしい。解決するまであきらめるわけにはいかない」。当時すでに90歳近い高齢。死刑を執行された仲間たちの遺書を片手に語る姿が印象的だった(記事は本誌2014年4月号に掲載)。
何のために、誰のために―。李さんら元BC級戦犯の心の叫びは、本書のタイトルにもなったこの言葉に集約されている。
「私の頭のなかに常にあるのは、死んだ仲間、その中でも刑死者たちです。彼らは、死刑囚だった私と同じく、誰のために、何のために死ぬのか、苦悶の時を過ごしたはずです。…
故郷を離れ、日本軍の捕虜政策の末端を担わされ、日本の戦犯として責任を負わされて死んでいった仲間たちの無念を多少なりとも晴らすことは、生き残った私の責務なのです。
日本政府は立法を促す司法の見解を真摯に受け止め、立法措置を早急に講じるべきです。…これは朝鮮人BC級戦犯者の私から、日本のみなさんへの問いかけです」(本文より)
問題解決を見ないままこの世を去らなければならなかったことはさぞかし無念だったと思う。その無念を少しでも晴らすにはどうすればいいのか―(相)