有田焼、もう一人の功労者
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月刊イオの連載「記者のアルバム」。毎号共通したテーマを設けず、イオ編集部の記者がそれぞれの関心に沿って歩いた場所を写真と文章で紹介するカラー4pの企画である。
去る4月には、佐賀県の北西端にある名護屋城博物館(唐津市)と同県西部に位置する有田町(西松浦郡)へ足を運び、およそ400数十年前の歴史に思いを馳せると同時に、それを現代に継承する人々を訪ねた。内容は月刊イオ7月号に掲載されている。
実はこの道中でもう一つ面白い出会いがあった。しかしページ数の関係から7月号ではまるまる割愛せざるを得なかったので、日刊イオで紹介したい。
その日は有田焼の始祖・李参平ゆかりの地を回りながら、直系の子孫として現在も窯を守り続けている14代目李参平(金ヶ江省平さん)にお会いする予定だった。
宿泊していた伊万里駅からローカル鉄道に乗って約25分。有田駅で降り、金ヶ江さんがいるギャラリーへ向かう。
初めての土地なので、Googleマップに目的地を入力し道筋に沿って歩いていると、なんだか目につく文字が。
ギャラリーベク…パスン? もしかして、ペク・パスン? なにかウリと関連のある場所か? 無性に気になる。そのスポットは、進行方向の右側に間もなく現れるところだった。
取材の約束時間までは少し余裕がある。
寄り道して様子を見ると…
あっ、チマチョゴリを着ている!!
さらに後ろの建物を見ると…
백파선(ペク・パソン)って書かれている!!!
この間、「記者のアルバム」のネタ探しのため、空港や駅に置いてあるフリーの観光情報紙を集めてはリサーチに励んでいたが、このギャラリーは見つけることができなかった。偶然の出会いに、いやGoogleマップに感謝である。
ひとまず、予定されている取材をこなすため有田町の中心地へ。14代目李参平(金ヶ江省平さん)から色々なお話を聞かせてもらった帰り道、再度「ギャラリー백파선」へ向かった。
突然の訪問を快く迎えて下さったのは、ギャラリーのオーナー・久保田均さん(72)だ。
「백파선は、“有田焼の母”と呼ばれています。韓国ドラマ『火の女神ジョンイ』って知っていますか? その主人公のモデルになった女性陶工なんですよ」(久保田さん)
豊臣秀吉が朝鮮を侵略した壬辰・ 丁酉倭乱(1592~98年)をきっかけに、陶工の夫・金泰道とともに鍋島藩に連れてこられた백파선。
もともとは有田から20kmほど離れた佐賀県武雄市の窯で作陶していたが、夫の死後、李参平によって良質の磁石が見つかった有田へ、一族を率いて移住した。以降、有田焼の草創期、その発展に貢献したという。
백파선は百婆仙と書くが本名ではない。100歳近くまで生きたことから愛称として呼ばれていたそうだ。
久保田さんは有田生まれ。もともと町おこしの一環として、韓国・慶尚南道の金海市にある仁済大学の学生をホームステイに招く交流を20年以上続けていた。そんなある年、小説や資料を通して백파선と出会い直す。さらに、かのじょが金海出身だと分かって驚いた。
「町内のお寺にある墓碑に『百婆仙』の名前が刻まれていることから、いち町民として存在は知ってはいましたが、さらっとしか受け止めていなかった。かのじょの故郷の子どもたちを100人近く招いていたのに、歴史を知らないがゆえに、きちんと教えることもできていませんでした」
백파선の存在をもっと多くの人に伝えよう-。そんな思いから、私財を投げうって「ギャラリー백파선」を開設。日韓の女性陶芸家とコラボしながら백파선の歴史と有田焼を広める活動に力を注ぎ、今年5周年を迎えた。
「文禄・慶長の役で朝鮮の人たちが日本に連れてこられたことを初めて知ったという人もいます。백파선を通して歴史への理解を深め、日韓のつながりを豊かにしたい。ギャラリーができたことで、未来につながれば嬉しいです」と久保田さん。日本が犯した過ちを見つめ、目を潤ませながら話す場面もあった。
じっくり説明を受けたあと、ギャラリーを見学させてもらうことに。現代の作家たちが手がけた作品はどれも個性的で魅力にあふれていた。
思いがけず奥深い話を聞けたことによる興奮で、自分用に小さなマグカップを購入(真上の写真)。色味がどれも素敵で1つに決めきれず、4種類あるうちの3種類を衝動買いしてしまった。
かわいらしい手提げかばんもあり心惹かれたが、ちょっと買い過ぎだったのでこちらは買うのを踏みとどまった。
ギャラリーのHPでは、作家の紹介や作品の写真を見ることができる。在庫がある商品は通販も可能だ。気になる方はチェックしてみて下さい。(理)
●「ギャラリー백파선」
https://www.baekpasun.com/