オリンピックを見ながら思ったこと
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今年も半年以上がとっくに過ぎた。
去年4月、コロナ禍で記者生活がはじまった。1年後は薬も出て、少しは状況が収まっているだろうと思っていたが、ここまで事態が悪化しているとは。先日、関西の出張先で「東京都感染者数3000人越え」の情報を目にしたときは、率直に、帰りたくないなと思った。
そして、このような状況のなか、東京オリンピックが開幕した。
朝鮮民主主義人民共和国の不参加により、特別応援する国もなく、さまざまな競技を解説とともに純粋に楽しんでいる。日本の地上波で見るので、どうしても日本代表の試合が多くなるが、これまで見向きもしなかった競技も、加点の基準や面白さ、ルールや、その種目を得意とする国など、いろんな情報を浅く広く得ることができ、つい見入ってしまう。
また、世界記録の更新や、さまざまな快挙の場面にリアルタイムで立ちあったり、手に汗握る接戦をハラハラしながら友人と観戦できることも、オリンピックシーズンの醍醐味だなあと思う。
バスケ経験者としては、近年、バスケがメジャーになってきたこと、地上波で放送されること、NBA選手たちが来日し、すぐそこの体育館で試合をしていることも興奮ポイントの一つだ。
このように、私の中では「超平和の祭典」が連日繰り広げられているが、オリンピックの開幕を前後して、障害者イジメ、ホロコーストの揶揄に続き、開会式で予定していたアフリカ系パフォーマーを一方的にキャンセルするなど、組織委員会含む主催側関係者の差別意識が次々と明るみになっている。
先日のブログにもあったが、日本政府による朝鮮学校差別、日本社会の朝鮮人、外国人への無関心や偏見を学び、経験し、自覚している身としては、やはりこの国での五輪開催に違和感しか感じない。
差別問題とは関係ないが、ウガンダ選手団の一人が失踪したニュースを見て、先の国会で審議された入管法の改悪が真っ先に浮かんだ。日本で難民認定を受けることがどれだけハードルが高いか、認定を受けることができなかったら、どのような処遇に置かれるのか―記者になっていなかったら、入管法改悪問題を取材していなかったら、「気の毒だな、大変だな」とは思っても、ここまで考えていなかっただろう。
私が持つ知識は、浅く広くな段階だが、記者になったことで、この社会がはらむさまざまな問題、特に人権問題に目を向けることができたと実感している。
同時に、記事を発信している身としては、世間からすると、「自分事」にならないと、どんな問題にも関心が持たれないという厳しい現実を、実感することもある。
一度関わった問題をしっかり突き詰めて、読者が自分事として捉えられるような記事を書いていきたいなと、オリンピックを見ながら思った。
オリンピック憲章に政治を持ち込んではいけない。スポーツの祭典だからというのがある。しかし自国を応援していると熱くなる。いっその事、全員をばらばらに年齢と性別ごとに分けて、そして名前と出身大陸別にABC順位に即興的にチームや団体を作ったら面白いと思った。そのチームごとにスローガンや名称を自らつけて。国ごとのメダル争いもない。しばらくして休日の昼寝から目が覚めた。世界平和と過去、現在、未来、どうも先入観から抜けられない。植民地、戦争、ホローコスト、飢え、差別、人種、イジメ、金持ち、嫉妬、税金、病気、国、歴史、偉い、一族、パルチザン、宗教、大企業、左翼、右翼、中道、、、、。