記者のアルバムonline ver.5/渡嘉敷島-「集団自決」、日本軍「慰安婦」を語り継ぐ
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10月22日(金)は取材が入っていなかった。
今回の沖縄出張は、後半の予定がはっきりしていなかったため、取材がない時間の過ごし方を組みかねていた。
出張の疲れが溜まっていたので、個人的には、普天間基地やその周辺を見て回り、ゆっくり那覇に戻って、ディープな街を楽しむのもありだった。
しかし、滅多にくることのない沖縄。日本の植民地下で、朝鮮人軍夫や、故・裴奉奇さんをはじめとする朝鮮人女性たちが、日本軍「慰安婦」として連行された渡嘉敷島を一目見るべきではないか――。渡嘉敷島に行くには10時のフェリーに乗らなくてはいけない(時刻は9時を回っていた at 布団の中)。
宮古島にも行ったので、経費を使いすぎている感じもする。白充さんが、「渡嘉敷島は車がないときつい、徒歩はほぼ無理」と言っていたが、大学卒業後に数回運転したきりだ…。なにより筆者、幼少期から三半規管がめっぽう弱く、重度の乗り物酔いだ。乗車時のにおいでオエッと来るほど弱く、幼少期はビニール袋を耳に引っ提げて車に乗っていたほど。今では、じっと座っていればほとんどの乗り物は大丈夫だが、船はさすがに…。実は、これが葛藤の最大の理由だった(笑)。
しかし、沖縄の取材なんて滅多にない。〝仕事だ、出すなら出せばいい!〟
葛藤の末に飛び起き、前日に金紅綺さん、李熙一さんに手土産としてもらったサーターアンダギーと魚サン(※)をカバンに詰め込み、タクシーに乗ってふ頭へ向かった(徒歩とゆいレールではもう間に合わない時間だった)。
「今日は海荒れてますねー。大きく揺れるよー」とチケット売り場のおばさん。
チケットを受け取る手が震えた。払い戻しも考えた。
さて、無事に到着し、ツアーの団体客に紛れてレンタカーショップへ。
車を借りようとしたが、目が合ってしまった。原付バイクと。
「私も離島ではじめて原付バイク乗ったよ」―。白充さんらと食事をしたとき、金暎華さんが言っていた言葉が浮かぶ。「原付バイクの方が、車より安い…これは、島の風を感じろということでは?」と自分を言い聞かせ、バイクにまたがった。
***
まずは、渡嘉敷島に渡った7人の日本軍性奴隷制被害者を追悼し、1997年に建立された「アリラン慰霊のモニュメント」へ向かった。戦時の日本軍による性暴力はこれまで習ってきたが、実際にその地を訪れると、いろんなことを考えさせられる。海に囲まれた異国の小さな島で、逃げ場もない―かのじょたちの目に、このきれいな海はどう映っていたのだろう。かのじょたちに思いを馳せてみるが、悲しいとか怖いとか、そのような言葉では言い表せない、絶望という言葉すら空虚に感じる気持ちだったのではないだろうか。
ついでなので、阿波連ビーチに向かうことにした。標識に沿って進むとそこは…
ここで、昨晩いただいたドン・キホーテのサーターアンダギーを食し、一休み。
ちなみに渡嘉敷島がある慶良間諸島の海は、世界屈指の美しさを誇り、その青さを「ケラマブルー」と呼ぶ。ダイビングスポットとして人気の島だ。次は潜りに来よう。
さて、時間がないので次の目的地、「集団自決跡地」へ向かった。
第2次世界大戦時、54万人にものぼる米軍が沖縄の地に押し寄せ、1945年3月には渡嘉敷島も制圧された。日本軍によって、北山に集められた島民たちは、村長の「天皇陛下万歳」の叫びを皮切りに、手りゅう弾を爆発させ、「集団自決」を行った―。
「集団自決」と言えど、軍の武器である手りゅう弾が島民の手に渡っている。「万が一のことがあれば、これで自決するように」と、軍から受け取ったという証言もあることから、日本軍による「強制自決」とも言われている。
「集団自決」の生存者として、自身の体験を語り継いでいる吉川嘉勝さんを訪ねた。
吉川さんは、「集団自決」が行われた当時6歳。戦時の体験は「思い出したくも話したくもなかった」が、2007年「教科書検定意見撤回を求める県民大会」の場で当時の体験を語ったことが大きなきっかけとなり、北海道から鹿児島まで各地を訪れ、これまで400以上も講演や歴史ガイドをしてきた。
吉川さんが語るのは集団自決だけではない。軍の秘密保持のため、島民と「慰安婦」たちの交流が禁止されていたなか、吉川さんの自宅で将校たちの宴会が行われていたり、吉川さんの叔父の家が軍の命令により「慰安婦宿」となったことで、7人の「慰安婦」たちを目撃している。
吉川さんは、日本各地を回り、「集団自決」の体験を講演する傍ら、渡嘉敷島では平和案内ガイドとして、朝鮮人の「慰安婦」について語り継いでいる。また、渡嘉敷島の案内マップに「アリラン慰霊のモニュメント」が載っていないことについて、これまで抗議をしてきた。(※詳細は2022年1月号に掲載)
写真と料理が好きだという吉川さん。自作の写真レシピも見せてくださった。
「僕、コーレーグース(唐辛子の泡盛漬け)が好きでね。これは朝鮮から来た文化だと思っている。それまで日本人は、刺身には醤油をつけていたはずだからね。小さい頃、叔父の宿の飼育豚に餌をやる家人について行き、『慰安婦』たちにコーレーグースをあげると、かのじょたちは喜んで、金平糖をくれた。金平糖ほしさに何度か行ったね」
吉川さんに聞いた「集団自決」の証言も、日本軍「慰安婦」についても、当事者の思いは戦争を知らない筆者が想像するには余りあった。どの言葉も軽々しく思えてしまうが、戦争―日本軍と米軍に翻弄され、思想や尊厳を踏みにじられても懸命に生きた裴奉奇ハルモニ、犠牲となった日本軍性奴隷制被害者たち、朝鮮人軍夫、沖縄戦を生き抜き、真実を語り継ぐ人びとへの敬意でいっぱいになった。
きれいな観光地を楽しむだけでなく、その地で先代がどう生きたのか、しっかり刻まなければと改めて思った。
土壇場での取材だったので、帰りのフェリーの時間が迫ってしまった。
「息子一家が那覇に住んでるから、今度はゆっくり、うちの2階に泊まればいいさぁ」と吉川さん。
しっかり勉強して、また渡嘉敷島に来ようと思った。(蘭)