名前の話、家の話
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月刊イオ2月号の特集は、「在日コリアン、名前の話」。
筆者は朴姓で、父と祖父は事業を営むにあたり「黒木」を使っているが、私自身、「黒木」を名乗ったり、記入したことが一度もなかったため、自分に通名(日本名)があると思ったことがなかった。朴姓の通名は、「新井」が多いし―という単純な思考で、「黒木」はどこかでとってつけた“会社用の名前”くらいに認識しており、由来なんて考えたこともなかった。
前回のブログでも書いたが、年末年始に祖父母の家で過ごし、ファミリーヒストリーに触れる機会があったので、ついでに通名について聞いてみた。
1929年4月に慶尚北道で生まれた祖父は、5~6歳の頃、家族全員で日本に渡って来た。
「(故郷の)生活が苦しかったから、日本に来たら仕事があると思って来たんじゃろね。1940年頃、創氏改名が実施されて、朝鮮人みんな日本の名前に変えることになった。ちょうどその時、アボジ(祖父の父)が用事があったのか、一度故郷に帰った。それで、日本に戻ってきたら『黒木にした』と。その時から学校で『黒木』を名乗ることになった。小学生のころ、アボジの仕事がなかったから、あっち行ったりこっち行ったり、3~4回引っ越した。最初は兵庫県の明石におって、それから北九州の八幡におって、八幡の枝光から黒崎に移って。枝光の小学校に通っていた時まで『朴』、夏に黒崎に引っ越し、転校した時から『黒木』で通った。黒崎の小学校の同級生は、わしが『朴』だということも知らない。故郷の親戚と打ち合わせたのか、決められたのか、どうして黒木にしたかはわからん」というのが、「朴」から「黒木」になった祖父のヒストリーだ。
ちなみに、「黒木」は“いい名前”らしく、祖父が通名を名乗ると「俳優みたいなかっこいい名前ですね」とよく言われるのだとか。
在日あるあるだと思うが、我が家では、アジェ(おじさん)やアジメ(おばさん)、コモ(叔母)を指すとき、前に地域名をつけて「大阪のアジェ」などと呼んでいた。その親戚たちと自分がどうつながっているのか、ここ最近まではっきりわかっていなかった(顔が似ている…などでなんとなく察してはいたが)。
祖父は1女3男の長男で、祖父以外みんな、おそらく解放前に韓国に戻ったので、正月に会っていた親戚はみな、日本で生まれ育った祖母のきょうだいだった。
(祖父が20年ほど前、故郷を訪問した際は、祖父の生家は残っており、少し改修され他の人が住んでいたという。私も一度故郷に行ってみたい)
1990年代、祖父が60後半の頃に、弟が日本に来て、再会を果たしたそうだ。10代で別れ、50数年ぶりの再会。しかし、互いに知っている共通の歌は、植民地期に日本の学校で習った日本の歌だ。「日本にいた頃の歌を肩組んで歌いながら泣きよった―。これが民族の悲しい歴史よ」という叔父のつぶやきが耳に残る。
さて、話を戻そう。
名前についてもう一つ個人的な発見があった。家族の中でもおそらく私だけの、遅すぎる気づきなのだが、本貫を知った。
というのも、確か高級部の時、同じく朴姓を持つ友人といたとき、どこかのおばちゃんに「朴姓の本貫は『密陽』しかないから、あなたもお友だちも、みんな密陽朴氏よ」と言われ、すっかり鵜呑みにしていたのだ。
2022年1月1日まで、密陽朴氏だと思っていたが、藩南朴氏だった。
そういえば、沖縄で金賢玉さんに本貫を聞かれたとき、「朴氏は密陽しかないと聞いたのですが…」とあいまいに答え、「アイゴー」と笑われたことを思い出した。
ざっと調べてみると、密陽朴氏が圧倒的に多いが、本貫は300以上あるという。
家の歴史について、自身のルーツについて、まだまだ知らないことが多いな、と思った。両家とも祖父母がまだまだ元気なので、これからはちょこちょこ家の歴史を聞いておきたい。(蘭)