見えていない人
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米国の人気ヒューマンドラマ「This is us」をブログで紹介して、2年が経とうとしている。
サブスクリプションで視聴している同ドラマ、当時はシーズン4が未公開だったので、無料公開になる日を待っていたらあっという間に時が過ぎ、数日前にシーズン4を見始めたのだが、6話目にこんな回想場面がある。
…養子として白人家庭で育ったランダル(黒人)は、学力が高い私立校に通い、学校唯一の黒人教師と親しくなり、マイケル・ジョーダンや、タイガー・ウッズに憧れながら、黒人としての自身の“居場所”を探すようになる。
ある日、父・ジャックはランダルをカントリークラブへ連れ出す。ビジネスなどの大事な関係はゴルフ場で生まれる―という経験からだ。過去にカントリークラブで失敗したジャックは、いつか大物になると期待を寄せるランダルに、チャンスをつかむための人との付き合い方を教えたかったのだが、ランダルは突然気分を害し、帰りたがる。
「パパはわかっていない。僕はきっとカントリークラブに入ることも無理だ」という言葉にジャックはハッとする。
ジャック:「あんなことを言ってすまない。でも、お前を見て『黒人だ』とは思わない。息子だと思っている」
ランダル:「だったら、僕が見えていない」
ドラマのなかの話だが、どんなに近い関係であっても、立場が違えば、このようなすれ違いがあり得るのか…と考えさせられた(※セリフは正確ではない)。
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昨年、取材とは関係なく、日本の人びとと交流する機会があったのだが、そこで筆者も自身が「見えていない」存在になるという体験をした。
そこにいたほとんどが海外への留学経験があり、異文化に少なからず触れたことのある、いわゆる“オープン”な人びとだ。故に悪気なく、好奇心で、ずかずかと出自について聞いてくる。
お決まりの「日本で生まれ育ったの?」からはじまり、「祖父母は北朝鮮の方なんだね」(ちがう)、「たとえばどんな差別や迫害を受けているの?」(それ、あなたたち側の歴史でしょ)―などなど。
日本の人びとに、最低限の朝・日の近現代史を知ってほしいというのは望みすぎなのだろうか。
ホロコーストなど、ヨーロッパの歴史でもいいから、植民地主義について少しでもかじっていたなら、まだ話す気になれたと思うが、どう考えても歴史に興味なさそうな人たちに、在日朝鮮人が日本で暮らすようになった理由や問題、抱えている葛藤をすべて話す気になんてなるはずがなく、聞かれたことだけをサクッと答えていた。
しかし、一つを答えるにしても、理由となる背景(歴史)を説明しないことには話にならない。
人に対してあまり物怖じしない筆者でも、被差別、被抑圧者側がたった1人で、加害国側の複数人に説明するのはさすがに気が引けたし、相手の反応を見ていると「あ、出た、その話」のような顔になっていたので、「あなたたち個人を責めているわけじゃなくて」「いい日本人だっているし、政府や差別者が悪いんだけど」と、ワンクッション、ツークッション入れ、かなり気を使った。
日本による朝鮮への植民地期の話をしていると、「ひどいことしたよね、ごめんね」とその場しのぎ(に感じた)の謝罪をさらっと受けたこともあった。個々人の間で「ごめんね」「いいよ」で済む話じゃないのだが…。
質問の内容や無神経な発言より、3~5代に渡って日本に「存在」しているわれわれが、この日本社会では本当に見えておらず、「在日コリアン」という言葉で存在を示すことができないこと、「この状況でこの質問は、答えづらいだろうな」「この質問にどう思うのかな」ということが「見えていない」ことに、やるせなさを感じた。
その話題に関心があるかどうかは、受け答えでだいたいわかる。
話していると、案の定「むずかしい話」は苦手なようだったので、かれらの反応や発言に一喜一憂はしていない。ある程度話したあとに、「ふーん、なんか難しいね!でも、そのアイデンティティ、朝鮮籍を貫いてね!」と無邪気に応援されたときには、心の中で白目向いたけど(笑)。
日本の会社に勤めるなど、日本社会にどっぶりつかったことがない筆者にとっては、“理解のない日本社会で、一人でアイデンティティに葛藤する”という疑似体験ができ、いい経験だった。いい経験と言えるのも、同胞コミュニティのなかで育ち、朝鮮人としての居場所がしっかりあるからだろう。一方、日本学校や日本社会で、このような思い、言語化できないモヤモヤをひとり抱くのはキツいなぁ…と感じた。
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ドラマの話に戻る。このドラマでいいなと思うのは、ドラッグやアルコール依存者、戦地から帰還し、PTSDを患う元兵士、LGBTQ+、外見コンプレックス、障がい者など、さまざまな人びとが登場し、家族、恋人、友人関係のなかで、立場、人種、性格、思考の違いで衝突しながらも、互いを理解しようと歩み寄り、話し合い、支え合うところだ。
昨年の出来事を通じて、日本社会は、「見えていない人」を「見よう」とする姿勢があまりに欠如していると身をもって感じた。
日本でも、誰もが「これが私ですけど何か?」ぐらい堂々と自分について話し、歩み寄っていければと思う一方で、自分にも「見えていない人」がいるはずだと常に意識しなければいけない。(蘭)