『ロバート・オッペンハイマー 愚者としての科学者』
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2日前のブログで(理)さんが積読について書いていた。
積読なら筆者も人後に落ちることはない、と言えば大げさかもしれないが、結構な量の未読の本がある。
あるSNSの投稿で、積読とは「自身の、本を読みたいという欲求と実現可能な読書量の差が具現化されたものなので、積読が多いという状態は、読書に対する情熱が高すぎるというとても素晴らしいこと」であると書かれていたが、なるほど、そのようにポジティブに定義することもできるのかと思った。
さて、筆者自身の話をしたい。積読された本の中から救出され、現在読んでいる本が『ロバート・オッペンハイマー 愚者としての科学者』(藤永茂著、ちくま学芸文庫)だ。1996年3月に朝日選書として出版されものが、昨年8月に文庫として再出版された。
本書は、「原爆の父」として知られる米国の理論物理学者ロバート・オッペンハイマーの評伝。ロス・アラモス研究所の初代所長として、米国の原爆開発「マンハッタン計画」を主導し、第2次大戦後は「原爆の父」と呼ばれるようになったオッペンハイマーだが、自身も物理学者である著者の藤永さんが問題にしたのは、長らく横行してきた、オッペンハイマーを「悪人」、オッペンハイマーを批判した物理学者レオ・シラードを「良心的な科学者」として評価する「お決まりの明快な構図」だ。
本書はこれまでに書かれたオッペンハイマーの評伝に再検討を加え、それらの多くに異を唱える。そして、豊富な史料をもとに彼の足跡を丹念にたどりながら、オッペンハイマーの再評価を試みている。
著者である藤永茂さんは物理学者でカナダ・アルバータ大学名誉教授。『アメリカ・インディアン悲史』『「闇の奥」の奥』『アメリカン・ドリームという悪夢』など、これまで接してきた藤永茂さんの著書から多くを学んできた(専門外であるのはもちろん、筆者は学生時代から理数分野はからきしだめだったので、著者の専門である物理学の著書を読む能力はない)。
藤永さんの著書のうち未読だった本書が文庫で再出版されたのを機に購入したのだが、例によって未読の本の一群に埋もれたまま時間が過ぎていった。
しかし、関心があって身銭を切って購入した本というのは、一旦は積読になっていても、ふとしたきっかけで必ずふたたび手に取るようになるものだ。本書が積読の山からピックアップされたのは、来年公開されるというクリストファー・ノーランの新作映画がオッペンハイマーを描いたものだということ、今般のウクライナ情勢にかかわってSNSなどで流れているStingの”Russians”の歌詞にも登場するなど、最近オッペンハイマーの名前を目にする機会が増えたこととも無関係ではない。
以下、少々長くなるが本書のテーマ、著者の問題意識が凝縮された「序」の一部を引用する。
オッペンハイマーの名は科学者の社会的責任が問われる時にはほとんど必ず引き出される。必ずネガティヴな意味で、つまり悪しき科学者のシンボルとして登場する。オッペンハイマーに対置される名前はレオ・シラードである。シラードは科学者の良心の権化、「あるべき科学者の理想像」として登場する。このおきまりの明快な構図に、あるうさん臭さをかぎつけた時から、私の視野の中で原水爆問題を執拗に包みこんでいた霧が少しずつ晴れはじめたのであった。
この、大天才でも大サタンでもないただの一人の孤独な男を、現代のプロメテウス、ファウスト、メフィスト、フランケンシュタイン博士、はたまた狡猾な傭兵隊長、ハッカー・ネドリーのアイドルに仕立て上げ、貶める必要はどこから生じるのか。そうすることで、誰が満足を覚え、利益を得るのか?
私が見定めた答は簡単である。私たちは、オッペンハイマーに、私たちが犯した、そして犯しつづけている犯罪をそっくり押しつけることで、アリバイを、無罪証明を手に入れようとするのである。オッペンハイマーは「原爆の父」と呼ばれる。これは女性物理学者リーゼ・マイトナーを「原爆の母」と呼ぶのと同じく愚にもつかぬ事だが、あえてこの比喩に乗りつづけるとすれば、オッペンハイマーは腕のたしかな産婆の役を果たした人物にすぎない。原爆を生んだ母体は私たちである。人間である。
(中略)
オッペンハイマーの生涯に長い間こだわりつづけることによって、私は、広島、長崎をもたらしたものは私たち人間である、という簡単な答に到達した。私にとって、これは不毛な答、責任の所在をあいまいにする答では決してなかった。むしろ、私はこの答から私の責任を明確に把握することができた。
(中略)
私がこれからロバート・オッペンハイマーを描くことを試みるのは、オッペンハイマーを知る労もとらずに、オッペンハイマーの名と、彼が口にしたとされるいくつかのキャッチフレーズを勝手な方向に乱用する人たちの退路を断ちたいと思うからである。オッペンハイマーのステレオタイプをつくりあげた評伝の類は数々あるが、それに対しては、最近亡くなった物理学者ユージン・ウィグナーの言葉を引用しておく。「彼の名は今ではかなり知れわたっているが、彼について一般に思われていることのほとんどは誤っている」。
(相)