鳥取のトンポと会いながら
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鳥取の米子駅についたのは夜19時前。
米子生まれ、米子育ちのリュウさんが、宿まで迎えに来てくれた。長身で、髪を薄い紫に染めたオシャレなリュウさんは、女性同盟の委員長として20年近くこの地域の女性たちのつながりを築いてきた人だ。
向かったのはタイ料理屋さんで、この店を切り盛りする女性も女性同盟の集まりに来るというから驚いた。「日本に来てパスポートや生活する上での手続きを手伝ったことがあってね。それからよ」。
ビーフン、ムール貝やエビのピリ辛料理に加えて、テーブルには柳さんお手製のサムチュのキムチが並んだ。「サムチュのキムチ?!」―驚きと好奇心で箸が伸び、長旅の軽い疲れがムルキムチのさわやかな味に癒されていく。
「日本の中学でソフトボールをしていました。結構有名だったのよ。推薦を受けて日本の高校に進学しようと思ったら、朝鮮籍の人間は国体に出られないと言われてね。オモニもアボジも民族心の強い人だったから、その思いを踏みつぶすようなことはしたくなかった。国籍を変えてまで続ける気はなくて。広島の朝鮮高校に進学しました」
卒業後は米子に戻り、日本学校に通う同胞の児童たちに朝鮮語を教える「午後夜間学校」講師の仕事に就く。朝青の活動も活発で、そこで知り合った男性と結婚。子どもたちは山陰朝鮮初中級学校へ通わせた。山陰初中は、島根県松江で1990年代末まで運営された山陰唯一の朝鮮学校だ。
鳥取での3日間の取材を支えてくれたのは、本部にお勤めのシンさんとチェさんのお2人で、気温30度近い熱さのなか、車で色んな所に連れていっていただき、感謝しかない。
お二人ともに島根で生まれ育った2世。
シンさんは日本の学校を卒業後、名古屋、東京へ。縫製工場などで働くも納得ができず、生まれ故郷に帰ってきては、総聯本部に出入りする過程で活動家の道を歩むようになった。
1990年に生まれた「一水会」がシンさんの生きがいだ。
なぜなら、米子に3つある親睦会の一つで50代から70代の同胞たちがこの場でつながりを保っているから。多い時は40人近い同胞たちが集い、この地域の同胞の近況や安否を話し合う場として、32年もの長きにわたり続けられ、同胞たちをつなげてきた。
鳥取の同胞社会を支えてきた2世たちの話は、歯を食いしばって生きた1世の背中と、同胞社会の現実から「自身の役割」を自覚し、理想に向かって駆け抜けてきた一代記で、その話に何度も目頭が熱くなった。
朝鮮東海に面した境港の街も3日間にかけて通い、朝鮮と日本の関係についても考えを巡らせた。
海の先に私たちの故郷、そして、肉親が暮らす朝鮮があると思うと、77年もの間、国交が結ばれず、人の行き来が遮断されてきた現実が迫ってくる。年月の長さは会いたい人に会えなかった人の数の多さでもあるから…。
20数年前、山陰地方の朝鮮学校がなくなり、この社会の民族教育は新たな課題を抱えているように思えた。私と同世代の50代の同胞たちと会うなかで、「民族教育を授けたかったけれど、学校がないから…」の言葉を聞き、(自分だったらどうしていただろう…)とその言葉を何度も反芻した。
地方都市へ足を運ぶと、東京で暮らすなかで忘れていた大切なことが見えてくる。
都会には人がたくさんいるというだけで、大切なことを見つめられていないということにも気づかされる。
私の取材を支えてくれた2世たちは、人の縁を大切にしていて、日ごろからそうしていらっしゃるように、私の取材も温かく支えてくださった。
「イオが来たのは久しぶりだよ」と境港のオルシンに言われた。
約20年前、イオで境港の同胞たちを紹介したことがあった。
その頃に比べると鳥取の同胞社会も大きな変化があっただろう。
それでも、互いに心配しあい、ねぎらいあう姿、海を越えた祖国の人々の幸せを願う姿に、「人のつながり」「同胞たちがつながりあう意味」を考えさせられた。
8月号の本誌でそのことを書いてみたい。(瑛)