ウトロヘイトクライム被害者弁護団 声明文
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2022.8.30
豊福誠二 冨増四季 上瀧浩子 玄政和 大杉光子
今回の判決は、量刑判断こそ検察官の求刑から全く引き下げのない厳しいものでありましたが、その内容は、マイノリティが現にヘイトクライムの危険にさらされている現状に目を向けない、真に不十分だったものといわざるをえません。
人種差別的動機に基づく犯罪、すなわちヘイトクライムは、社会から信頼と連帯をなくし、最終的には民族浄化(ジェノサイド)に定向進化してしまう、非常に恐ろしいものです。この恐ろしさは、人種差別と無関係に安全に生きているマジョリティにはなかなか理解しにくいものでもあります。
ヘイトクライムは決してあってはならないものですが、実際に事件が発生してしまいました(本件においては、被告人は、ウトロの土地が不法占拠だったことを知らしめたかったなどと言っていますが、これは後付けの理由に過ぎません。彼は、名古屋で犯行をしたものの、反響が少なかったのでがっかりし、京都で新たなターゲットを探しているうちに本件犯行を思いついただけなのです。彼は最初から在日韓国朝鮮人を狙っていたのです。本件は、民族という属性を理由として客体を選別しているので晃かなヘイトクライムです)。
ヘイトクライムが実際に起きている現状に、司法判断はどうあるべきか。これまで日本においてヘイトクライム「だったであろう」犯罪が、なかったわけではありませんでした。しかし、差別目的に言及した判決は、略式命令で侮辱罪が認定され科料9000円が言い渡された一件を除き、ありませんでした。公判請求された例では前例がありません。つまり刑事司法は全く見て見ぬふりをしてきたのです。差別目的ではなく「韓国への悪感情」を指摘した判決もありましたが、この「韓国への悪感情」は、動機が「韓国への悪感情という」身勝手なものだった、という「身勝手さ」の要因にされており、矮小化されていました。とても差別と正面から向き合ったものとはいえませんでした。
司法がヘイトに向き合って、これに否定的判断を下すことは、少なくとも二つの意味から必要です。第一に一般予防の見地です。つまり、ヘイトクライムは通常の犯罪に比べて厳しく裁かれるのだということを知らしめて犯罪抑止をすること。第二に、それ以上に大事なことですが、司法権が、人権の最後の砦として、マイノリティの権利が蹂躙されている現状に国家機関の一つとしてこれを許さないと宣言をすることの意味です。在日韓国朝鮮人には選挙権がなく、統治機構に直接関わることができません。これまでいろいろなシステムから阻害されてきており、現状も全く十分でないのです。立法府や行政府を動かすことは困難であり、このような時にこそ司法権の出番なのです。
今回の判決では、日本の刑事司法の歴史上初めて、公判廷において人種差別目的が認定されるか注目されていましたが、残念ながら、判示において、「人種差別」「差別目的」という言葉は一つも現れませんでした。
すなわち、今回の判決においては「敵対感情」「嫌悪感」という表現は出てきましたが、一度も「差別」という言葉がありませんでした。あれほど公判廷において被告人が自ら何度も述べ、調書においても人種差別目的を縷々自白して認められていたにもかかわらず、誠に器用に裁判所は「差別」という言葉を一度も使わなかったのです。なぜここまでかたくななのか、被害者側としては全く理解できず、この点については厳しい評価になります。
また、「敵対感情」の使われ方も、旧来の量刑の枠組みから踏み出した判断とはいえないものでした。すなわち、法定刑の幅が国際的にみて非常に幅広い日本において、宣告刑の選択のことを量刑、刑の量定といいますが、ここにおいては、①犯行の動機、②犯行態様、③結果の重大さという各要素が判断材料になります。本件であれば、①犯行の動機として人種差別的目的、③結果の重大性として人種差別的効果が考慮されるべきです。しかしながら、本判決は、①犯行の動機として「敵対感情」「在日韓国朝鮮人という特定の出自を持つ人々に対する偏見や嫌悪感」「排外的な世論を喚起」などの指摘はしつつも人種差別的目的という言葉をあえて避けるとともに、③結果の重大性として「地域住民にとって」の財産的損害のみならず精神的苦痛を考慮しつつも人種差別的効果という言葉は一言も出てこない。差別という言葉を意図的にあえて避けているとしかいいようがなく、きわめて不十分なものである。
また、判決では、被告人が、暴力的手段に訴えて自らの目的を達成しようとした点について、民主主義社会では容認されない、という、一見格好のいい判示がなされました。しかし、では、彼のもっていた排外主義的思想は、暴力的手段に訴えなければ、つまり民主主義に訴えれば許容されるのでしょうか。これは、いわゆるネット右翼のよくいう、「在特会は言っていることはまともだけれどもやりかたが許せないよね」という言いぶりと、被害者の目からは何も変わらないものと受け止められます。なぜ、人種差別は絶対に許されないものだと宣言できないのでしょうか。
また、裁判所が、「偏見」、「排外主義的思想」など、本件の特徴をある程度適切に評価した事実認定をしつつも、肝心のところ、つまり本件が人種差別のあらわれた事件であるという当然の認定から逃げていることも許せるものではありません。
判示において、地域社会の不安感、祈念館について触れていただけたことは評価できますが、なぜ、差別ということに正面から向き合わなかったのか、誠に残念です。
今回の判決は、裁判所が、人権の最後の砦として、人種差別を断罪し、参政権を持たないマイノリティの人権に配慮をするというその職責を放棄したものであり、誠に残念なものであったと評価せざるをえません。