「図書館の自由に関する宣言」と図書館の役割
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文科省は今年8月30日付で、「北朝鮮当局による拉致問題に関する図書等の充実に係る御協力等について」と題した文書を事務連絡として発出、各地の教育委員会や図書館へ関連本の充実を求めた。このような特定のテーマの本について、文科省が図書館へ充実を求めるのは異例のことだという。
先日、報じられて話題となったこのニュースだが、「朝鮮新報」は1954年に制定された日本図書館協会「図書館の自由に関する宣言」を引用して、次のように論じている。
「図書館の自由に関する宣言は」「権力の介入や社会的圧力に左右されることなく、自らの責任に基づいて収集した資料を国民に提供することが図書館の任務」であるとして、図書館の役割に関する理念を掲げている。
文書と関連して、文科省側は「事務連絡に法的拘束力はなく、選書はあくまでも各図書館がそれぞれの基準で判断すること」としているが、2016年当時、文科省が各都道府県知事あてに送った朝鮮学校への補助金自粛を求める「3.29通知」を受けて、各地で補助金停止や凍結の動きが広がった事実が示すとおり、今般の事務連絡は事実上の要請であり指示に他ならない。
私が図書館と国家権力との関係や「図書館の自由に関する宣言」について考えるきっかけの一つを与えてくれたのは、20歳の時に見た一本の映画だった。
「セブン」(デヴィッド・フィンチャー監督、1995年)。ブラッド・ピット演ずる若手刑事ミルズとモーガン・フリーマン演ずるベテラン刑事サマセットのコンビが、ケビン・スペイシー演ずる連続猟奇殺人犯を追うというサスペンス・スリラーものの傑作。
作中で、図書館が利用者の貸出情報を捜査機関に提供する描写がある。手がかりのない殺人犯のプロファイリングのためにサマセットが図書館の貸し出し履歴を入手し、それが糸口となって犯人にたどり着く流れだ。
サマセットはミルズに「絶対に口外するな」と前置きしてこう言う。「FBI は本の貸出をチェックしている。核兵器に関する本や『我が闘争』を借りた人物をマークしている。それだけで逮捕はしないが、図書カードは身分証がないともらえないだろ」。
リストを見て「こんなものどこから手に入れたんだ?」と驚くミルズ。「それは違法だ。借りたのは論文を書いてる学生かもしれない」。
当時、のほほんとした大学生だった私は、図書館の貸出履歴を入手、閲覧することの問題性について深く認識していなかったが、この映画を見て自分の認識を改めた。
「図書館の自由に関する宣言」
第3 図書館は利用者の秘密を守る
読者が何を読むかはその人のプライバシーに属することであり、図書館は、利用者の読書事実を外部に漏らさない。ただし、憲法第35条にもとづく令状を確認した場合は例外とする。
図書館は、読書記録以外の図書館の利用事実に関しても、利用者のプライバシーを侵さない。
利用者の読書事実、利用事実は、図書館が業務上知り得た秘密であって、図書館活動に従事するすべての人びとは、この秘密を守らなければならない。
図書館の貸し出し履歴や予約状況によって個人の思想信条、趣味嗜好を勝手に権力機関に把握されるのは恐ろしい。プライバシーの保護、思想信条や知る自由を保障するために、それが犯罪捜査に必要なものだとしても国家機関への個人情報の提供には慎重に慎重を期してほしいと思うのは利用者として当然だろう(国家権力は言わずもがなだが、対私人でも大いに問題だ)。
冒頭の話題とは少々ずれてしまった。
しかし、インターネットが社会の隅々まで行き渡った現代では、図書館の利用履歴どころかネットの検索履歴情報も広く商業利用されている。そして私たちはそれをある面では便利だと受け入れているのだ。もはや後戻りできない状況にあるのかもしれない。(相)