媚びを売っていた私へ
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新卒でイオ編集部に配属されてあっという間に10年目を迎えた。もともと記者希望だったものの、今よりもっと人との接し方が不器用で世間慣れしていなかった自分は、取材の間はどうにかコミュニケーションが取れても、その後の打ち上げ的な場でうまく立ち振る舞うことが苦手だった。
初めて出張に行った時、無事に取材を終えたあと先方がそのまま食事に誘ってくれたので、お言葉に甘えることにした。食事の場でその人は、妻や子どもとの仲睦まじい写メを何枚も見せてくれたことを記憶している。
せっかくなので、ともう1軒お酒を飲む場に寄り、もう遅いので私が泊まっている宿の近くまで送ってあげると言ったその男性。歩いているとなんだか会話の雰囲気が変わってきて最初は頭がついていかなかったのだが、「ちょっとホテル行かない?」と言われて完全に成り行きを理解した。
瞬間的に危険信号が出て、わざとおちゃらけた口調で「いやいやいや」「私、○○(その人のかつての教え子)と同い年ですよ?」と抵抗すると「それは言ってほしくないな~」と言って一旦は離れるも、また少し歩くと「どう?」と腕を掴まれて軽く引っ張られた。
まだ人目がある場所だったからなのか、私が本気でありえないと感じていることを察したのか、あるいは拒否の反応が過剰だったのか(私は無意識に声がでかい)、そのまま強い力で引っ張っていかれることはなかった。先ほどまでの雰囲気はいつの間にか雲散霧消していて、気がつくと宿の近くに到着していた。何食わぬ顔で手を振り、その男性は去っていった。何が起こったか分からなくなりそうだった。
そんなことを実際に体験しつつも、危害を加えられなかったから結果オーライと捉えたのか、なお事の怖さを理解していなかった私は、出張から戻ったあと先輩に笑い話としてそのことを話した。いま考えると何もなくて本当に幸運でしかないが、当時はまったく能天気だった。
もちろん先輩は本気で心配してくれており、上司に申告。上司が出張先にこのことを伝え、現地ではそれなりの対応がなされたと後日聞いた。(ああ、そうなんだ)と思った。笑い話にしなくてもよかったんだ。絶対にありえないことなんだと改めて身が引き締まった。
こうした出来事用のマニュアルはなく、すべて経験して知ることだった。
大人数での飲み会も難しかった。働き始めて数年はお酒も弱かったので周りに調子を合わせて飲むこともできず、先輩たちのように気の利く言葉の一つも言えず、かと言って屈託のない笑顔も作れず、自分よりはるかに年上の人たちに囲まれて、常に心の中で焦っていた。
別の部署にはとても愛想とノリのいい女性の先輩がおり、たまに取材とその後の飲み会で一緒になると、その明るさと器用さに圧倒された。やはりこういう人の方が喜ばれるんだろうなと、隣で必死に愛想笑いをしながらせめてもとお酌に努めた。
その飲み会の帰り道、参加していた一人の初老男性と先輩がちょっとした言い合いをしていた。記者だったその先輩は、その男性が紙面の内容を批判したことに反論していた。曰く「それはイメージで、実際はもっと色々な内容がある。ちゃんと読んでほしい」―。熱い人だなと思った。
だが、先輩が懸命に言葉を継ごうとしている途中で、男性が「この女は生意気に!」と声を荒げた。突然のことに驚いた。先輩もひどくショックを受けているようだった。
先ほどまで気分よくお酌をしてもらい、散々と自分の話を聞かせていたのに、こんな風に威嚇的な態度で人の言葉をさえぎってしまえるんだ。こんなに簡単に手のひらを返すような態度を取るのか、と冷静に思った。「この女」という言葉など、漫画やテレビでしか見たことがなかったため、衝撃でしばらく頭に残った。
その数年後、同じような飲み会に私ひとりで参加する機会があった。その場に女性は私ひとり。はじめは仕事のことについて話していた人たちが、次第に同席している私に「気を遣う」ようになる。彼氏はいるの、欲しくないの、恋愛したほうがいいよ、この中から選ぶとしたら誰がいい…。
さらには対面で「孕ませる」という旨の冗談を言われた。その場にいた人たちは大爆笑。自分たちが楽しむための下ネタのエサにされた私は当時——へらへらと笑っていた。どっと沸く渦の中で、これが正解だと思っていた。みんな楽しそうだったし、名前も覚えてもらえたし、突然怒って声を荒げられることもなかったし。帰り道、(今日はうまく馴染めたかもな)と満足すらした。
その後、何度も似たような場に身を置いた。他人の立ち振る舞いも観察しながら、こいういうのが処世術なのかなと試行錯誤してみた。相手に気に入ってもらわなければならないと思っていた。それはそうなのだろうけれど、何かを履き違えていた。
しかし、媚びなくてもいいんだよ、と直接的に教えてもらう機会はなかった。教えてもらわないと分からないくらい、私は世間や人付き合いについて本当に疎かった。
また、「相手に気に入ってもらわなければならないんだ」と倒錯してしまうような事象にたくさん直面した。
ある男性は、取材で言ったはずのことを「言っていない」としながら、私がそんなはずないと必死で説明すると電話口で一瞬声を荒げて話をさえぎり、「別に記事は取り下げてもらってもいいんですよ」とこちらが一番困る言葉を意図的に発して私を黙らせた。
また、とある地方で取材の窓口となっていた別の男性は、こちらの申し出や質問に対して「ああ?」「うん」「…で?」など、終始ぞんざいで威圧的な話し方をするため、電話をするのが本当に嫌だった。純粋に怖かったし、なんであんな冷たいんだろうと腹が立った。しかし、だからこそこちらはへりくだるしかなかった。
のちに分かったことだが、この男性は自分以外にも、別の機関で働いている同級生と、後年イオ編集部に入ってきた私の後輩にも同じような態度を取っていた。共通していたのは私たちが年下の女性だということだ(同年代の男性にそれとなく探りを入れてみたこともあるが、同じことをされたという人はいなかった)。
さらに嫌な気持ちになったのは、その男性がやはり相手によって態度を変えているのだと確信した時だ。私は2019年に結婚したのだが、結婚後、要件があってまた男性に電話をすると話し方が以前とまったく違っていることに気がついた。
その男性と私の夫はお互いに面識があり、電話を受けた時期に男性はすでに私と夫の婚姻関係を認識していたことが分かった。知人の妻は丁重に扱わないといけないのだろう。なぜなら「あの人、感じ悪いね」と言われたら、そういう印象が知人を通して界隈に広まったら困るから。
恐らく、かれの中では序列が決まっていたのだ。一番は年上(その中でも特に男性)、次に同年代の男性、そして優先順位の高い人に連なる人、同年代の女性、年下の男性と来て、最も顧みなくていいのは年下の女性。だいたいこんな並びではないだろうか。
わざとかもしれないし無意識かもしれない。わざとであれば論外だし、無意識だったとしたらそれはそれで怖い。
…とにかく、こんなことがちょいちょいあるから、「気に入られることは大事」だと過剰に思い詰めてしまうようになったのかもしれない。
もちろん、すべての男性のいる会合や取材先について書いているのではない。「女性」「年下」という記号ではなく、いちイルクン、記者として接してくれた方々もたくさんいらした。
同時に、そうやって真っ直ぐに相対してさまざまな話を聞かせてくれたり、また聞いてくれたり、こちらを尊重しつつ意見を交わしてくれる方々に出会えたことで、少しずつ、自分がやっていたことはただ媚びを売っているだけだったんだという事実に気づくことができた。また、それがまったく必要のない態度だったということも。
上に書いた男性たちにとっては些細で取るに足らない出来事かもしれないが、私は今でも、いや今、改めて一人ひとりの顔、声、当時のぴりついた空気、困惑、緊張感、その後の怒り、悔しさを十分に思い出せる。
このことを少しだけ夫に話してみたことがある。夫は、「いつまでもそうやって覚えて恨み続けていたら自分が辛くない?」というような言葉をかけてくれた。私の心を思いやる言葉だと理解・感謝はしつつ、一方で、今後の糧にするため記憶しておく、言語化することは大切だとも思った。
確かに、自分の頭や心にべったりと貼りついてしまっているような記憶の仕方ではメンタルによくない。落ち着いて振り返り、書くことで手放したい。そう思って今回、ブログで取り上げてみた。
そして重ねて書くが、仕事はある程度、先輩たちから習うことはできても、仕事の延長線上にある場でどのようなことがあり、どのように振る舞えばいいのかについて学ぶ機会というものは基本的にない。
自分の心を殺して媚びを売っていたり、そのことでさらに自分への嫌悪感や劣等感を募らせたり、実際に嫌な目に遭っている後輩たちが少しでも楽になればいいなと考え、こうして文章に残してみた次第である。(理)
共感できる内容でした。男尊女卑思想が根強い同胞社会に一石投じましたね。その勇気に賛辞を送ります!リエ、頑張ってね。
ソンセンニム、お久しぶりです!
呑気な学生が、社会に揉まれるうちにいつの間にか問題意識を持たざるを得なくなりました。笑
少しでも一石を投じる内容になれば幸いです。
コメント書き込んで下さりコマッスンミダ!
色々な形体のハラスメントの話と捉えました。どこの社会や業界にも、少なからず存在しますよね。絶対にあってはならない事と云うのは大前提として、そういう人たちが一定数存在することを認識して、緊急感を持って、ある意味で警戒しながら人と接していく事だと思います。私の私見としては、同胞社会に対する期待・同胞社会に対する幻想・同胞社会に対する甘えの気持ちが、見え隠れしている気がします。そのような考えはキッパリ捨てたほうが良いと思います。同胞社会にだって女癖の悪い奴はいるし、同胞社会だって誠実ではない人はいるし、同胞社会だって相互扶助や同胞愛の無い人はいるし、同胞社会だって男尊女卑の封建的な人はいるし(むしろ同胞社会のほうが多いかも)。同胞社会が、特別でもなく、温かいわけでもなく、素晴らしいわけでもない。一旦、認識をリセットして、日本社会や他の業界とフラットに考えれば、日記に書かれている事柄は、そう珍しい事ではありません。むしろ、出版業界あるあるなのかもしれません。私は男ですが、社会人になりたての頃や若い時代には、様々な失敗や経験不足から、いま思えば恥ずかしい事をしたり人を傷つけたりしたかもしれないと思います。でもそうやって20代って過ぎていくものでしょう?それらを経験して、あなたは立派に30代になったという事です。男女問わず、人はみんなそんなモヤモヤを抱えて生きているのだと思いますよ。コロナ禍が終息したら、後輩たちとの飲み会の場で、いろんな事を伝えてあげてください。そういう意味では飲み会の存在意義はあると思いますね。
ブログ公開後に一人の読者の方から、文章の後半に出てくる夫の言葉(「いつまでもそうやって覚えて恨み続けていたら自分が辛くない?」)について「夫、それじゃトーンポリシングになりかねないよ…」と懸念するコメントを頂きました。
トーンポリシングという言葉は私も聞いたことがあって、「トーン(話し方)+ポリシング(取り締まり)」で、論点をすり替えたりずらすことで話し手の主張を矮小化したり議論を拒否する行為のことをいうようです。私はその方に、それこそ「私たちがよく受けることですよね」と返しましたが、まさにこちらのコメントもトーンポリシングだと感じてしまいました。
私は自分が同胞社会に幻想を抱いていたとは思いません。いい人しかいないだなんて考えてもいません。さまざまな人がおり、その人ごとの感情があって、それがぶつかることもあるということは経験からも分かっています。
また、レイプをはじめとした性加害を受けるかもしれないということに対する「緊張感を持って」「警戒しながら」人と接することはできますが(実際にそうしていますが)、突発的にぞんざいな態度をしてくる人と接する際の処世術も、常にこちらが率先して持たなければいけないのでしょうか。する側は何も学ぶ必要はなく、心のままに人と接すればいいのでしょうか。そもそも、緊張や警戒は女性だけに強いられることが多く、男性が学ぶという風潮はほとんどありません。そのことについて意識的に語られることもなかったと思います。
>日記に書かれている事柄は、そう珍しい事ではありません。
コメント主さんは冒頭で「色々な形体のハラスメントの話」「絶対にあってはならない事」と書かれていますが、仰る通りで、だからこそこうした事柄が「そう珍しい事では」ないことが問題ですし、私はたくさんの同じような経験をした人たちへの励ましと、無意識に加害をしてきた人たちへの注意喚起がしたくてこのブログを書きました。
>いま思えば恥ずかしい事をしたり人を傷つけたりしたかもしれないと思います。でもそうやって20代って過ぎていくものでしょう?
そうした20代を過ごしてきた方もこれまでたくさんいるかもしれませんが、社会の意識が向上すれば、「受ける必要のなかった傷」を受ける20代はもっと減るかもしれません。また、傷を受けなくても学べること、方法はたくさんあります。私は、下の世代には、属性によって不均衡・不必要にもたらされる傷を受けてほしくないです。
長々と書いてしまいましたが、コメント主さんはコメント主さんの時代で、実際に受けてきたこと、経験してきたこと、見てきたものがあり、それをもとに励ましの意味も込めてアドバイス下さったのだと推察します。コメント下さりありがとうございました。
>いま思えば恥ずかしい事をしたり人を傷つけたりしたかもしれないと思います。でもそうやって20代って過ぎていくものでしょう?
に関して補足がありました。
仰りたいことの意味を理解できます。初めて経験することも多いので、失敗を繰り返しながら学んでいくということ。
一方で、(コメント主さんがダイレクトにそう主張しているわけではないということは知りつつ、文脈をお借りして伝えたいのは)若さは人を傷つけてもいいということの免罪符にはならないと思います。
「20代」で括って一般化してしまうことは、自身が簡単に加害しうる立場にいるのだということに自覚的で、学ぼうとしている現代の20代(若い世代)の気持ちも削いでしまうことにつながると思います。
仕方ないと考えるか、自覚的になり少しでも回避するか。意識ひとつで変わってくる部分もあると思います。
トーンポリシングという言葉、はじめて聞きました。これから、人と接していく際には、頭のすみに置いておきたいと思います。私が言いたかった事は、経験をして、それが成功しようが失敗しようが、結果的に人を傷つける事があるかもしれないが、そこからでしか学べない事って多いよねって事を言いたかったのです。もちろん、成功するに越した事はないし、また、人を傷つけずに学びを得ることが出来れば良いとは思います。最初から、好んで失敗したり人を傷つける事で学びを得たいなんて思ってる人はいないと思います。日記の中の、ホテルに誘ったエロオヤジ然り、下ネタ連発のゲス野郎然り、長い時を重ねた今となっては、反省の上の経験として、また教訓として、本人たちの心に刻まれていると思いますし、そう信じたいと思います。ただ、先程おっしゃってましたが、ハラスメントは度を越すと性犯罪に発展する可能性があるので、ハラスメントが絶対にあってはならないという考えは確固たるものとしてあるのですが、どうしたら防げるのかという視点が足りなかったのかなと思います。私は、ハラスメントも含めて、加害側も被害側も、経験からでしか学べないのではないかと考えていた節があったのかなと。この認識は、改めないといけないなと猛省しました、今の時代の認識ではありませんね。では、どうしたらハラスメントを防げるのか?私には、申し訳ないがその答えを持ち合わせてないのが現状です。ただ、啓発や教育によって、少しでも防げるのあれば、そこに期待したいと思います。私が、あなたの日記で考えさせられたように、もっと「考えさせられる」人が増えていけば、少しずつかもしれませんが社会も変わっていくかもしれませんね。例えば、あなたが全国の朝高をまわってハラスメントに関する講演をするとか、編集部においてハラスメントの実態調査をしてイオの記事にしてもいいかもしれません。最後に、ほとんどの人は、ハラスメントは絶対にありえないと思っているし、あってはいけないと思ってはいるのですが、どうしたら防げるのかの具体的な方策が分からないのだと思います。なので現状は、経験から学ぶ事になってしまっているし、教育が無いので、後になってからあれはハラスメントだったのだと、加害側も被害側も気付く事もありますよね。これからも、この問題、考え続けていきたいと思います。返信ありがとうございました。
仰りたかったこと、改めて理解しました。
「どうしたら防げるのかという視点が足りなかったのかなと思います」「加害側も被害側も、経験からでしか学べないのではないかと考えていた節があったのかなと。この認識は、改めないといけないなと猛省しました」、こういう気づきを得られたということ、すごいことだと思います。トーンポリシングという言葉の説明含め、返信の内容をゆっくり読んで下さりありがとうございました。
私は、このブログを公開したあとに寄せられた別の方からのコメントに触れて、改めて伊藤詩織さん(性暴力被害を受けた当事者の方)の本を買いました。被害者側にとって、経験を通して学ぶということは直接的に心と身体に傷を受けることになってしまう(レイプに限らず、性的に消費されたり、女性という属性だけで侮られたり、脅されたりすることも、しっかり心に傷として残ることです…)ので、加害者と同列には語ることができませんし、だからこそ問題を未然に防ぐために皆が学んだり行動しないといけないのだと考えています。考えるための実例は、新たに失敗を重ねずともすでにたくさんの、起きてしまった被害の上にあると思います。
仰る通り、啓発や教育を通して、問題について知り、考える人が増えることで確実に身近な空間から社会へと変化があらわれていくと思います。「どうしたら防げるのかの具体的な方策が分からない」ともありましたが、どこにアクセスしたらいいか分からない、誰にどう聞いたらいいか分からない、という方は実際に多いのかもしれませんね。だからこそイオをはじめとする同胞メディアで、本当にもっとこうしたことが普通に語られるといいですよね。宣伝になりますが(笑)、来年度のイオで「言わせてもらっていいですか!EX」という連載がカラー1pで新たに始まるので、そうしたものも参考にして下さるとうれしいです。同胞社会の中にある性別役割分担のほか、セクハラ、マタハラ、障害、学歴、結婚の有無、年齢差別など、日常に潜む偏見の言葉・態度、固定観念に対して広く問題提起する筆者月替わりのエッセイです。
今回、こうしてやり取りしてみて、また丁寧なお返事も受け取りながら、コメント欄でこうした疑問や意見、発見をシェアして下さったこともとても意義のあることだと感じました。コマッスムニダ!