エッセイ 連載・朝鮮学校百物語(全70回)を終えて vol.2 – イオWeb

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エッセイ 連載・朝鮮学校百物語(全70回)を終えて vol.2

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2件のフィードバック

  1. 呉島憲一(呉世憲) より:

    徳山初・中級学校管内で生活し、現在は北九州市小倉在住の1937生(85歳)
    筑豊の砂場つくりを見て 1980年代に同じような事をしていた日々がよみがえりました。
    帰国運動などもあって急増した生徒のために廃校になった日本学校の解体木材で2階建て9教室は出来たが運動器具等は無く 先生方と支部朝青との交流会で「バスケットポールは作れないか」との話から 運動場の北側に固定ポール、南側に移動式が出来、制作に自信を得た朝青員達は登り棒、運てい、鉄棒に砂場まで作りました。材料の鉄材は同胞スクラップ屋さんに協力を求め新品長尺パイプは寄贈して頂き、中古材はペーパーがけ、錆止め処理して使いました。
     昼間は働く朝青員達は贈呈式を 夜の校庭で行いその後 学校裏の宿直室での慰労会となり大いに盛り上がった所に おりしも”良いニュース”を探しに来た中央機関紙記者が大いに関心を示し2時間を超える距離を駆けつき酒宴の中での取材は「本音」ばかりでした。
     しばらくして朝青中央機関紙4面 1ページ前面の記事となりました。
     すべての溶接作業は手の掛かるガス溶接で できる人はただ一人R君だけでしたので当然の如く記事の中心人物でしたが R君は別団体所属で朝青員ではありませんでしたがお姉さんが結婚して帰国しておられ何となく疎遠な感じがあったようでしたが その姉から封書がとどきます。 祖国の社労青機関紙が同封され印のつけられた個所に「朝青機関紙から転載された朝青徳山の運動器具造りの記事」がありました。

    この事が後年の3階建てコンクリート校舎になるときの旧木造校舎解体と、運動場1mかさ上げ事業を朝青支部が請け負う事で数百万円節約に貢献しました。
    2009年3月20日 
    生徒数7名で休校式を行い
    1946年 旧朝鮮人初等学校開設
    GHQ、日本官憲による強制閉鎖をへて
    再建徳山朝鮮初、中級学校休校となります。

    休校後、地域同胞の中心点が”学校”で有ったことを痛感しながら今日に至ります。
    ともすれば「休校」が敗者の選択のように思われたかのような無関心ぶりは残念ですが 多くの仲間が旅立った今 このような記事にめぐりあわせ感想なりとも残せたことを喜びたいと思います。

  2. 呉世憲 より:

    日本人の友人に「映画ウリハッキョ」と”モンダンヨンピル”の話をしたくて資料探しをしていたら”自分のコメント”行きつき驚きました。 この春に書いたのに”読んでから納得!” 
    老化現象甚だし・・を再確認しました。

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