エッセイ 連載・朝鮮学校百物語(全70回)を終えて vol.2
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2015年1月から始まった月刊イオの連載「朝鮮学校百物語」が2023年1月号の70回目を最後に終了しました。最新号の2023年3月号には、70回の連載を振り返る記事と担当記者のエッセイが掲載されています。ブログ日刊イオでは、担当記者たちによる、より詳しいエッセイを3回にかけて記します。今日は2回目となります。
・印象に残っている取材
学生時代は「歴史」に苦手意識を持っていた。ただ年代と出来事を暗記する科目として捉えており、“過去から現在に続く事柄を学ぶことで自分たちを取り巻く構造に自覚的になる”という認識が欠如していたからである。
しかし、同連載が始まり歴史を綴るという作業をして初めて、少しずつその意義や楽しさが見え始めた。
特に印象に残っているのは、数々のいきいきとした語り、その人ならではの生の実感がこもった言葉だ。
例えば、「はじまりのウリハッキョ編No.13/群馬同胞社会と民族教育」(2016年1月号)に登場した朴徳栄さんの言葉を挙げたい。朴さんは、栃木県足利市にある足利朝鮮初級学校(57年創立。59年に中級部を併設し、北関東朝鮮初中級学校に改称)に県をまたいで通っていた。
「朝は6時半の汽車で1時間半かけて通学。冬の朝なんかは暗くてまだ月が出ているし、夕方もすぐ暗くなるから高崎に帰ってくるとまた月さ。で、もう寝ないとね。次の日も早いし」
この語りが妙に印象的だった。目の前で話を聞いた時、その月を自分も見たような気持ちになり一気に引き込まれた。そこから、どうしてそんなに苦労をしてまで朝鮮学校に通ったのか、本人の見聞きしたもの、周囲の思い、当時の環境など、どんどんと知りたいことが広がっていった。
物事を大きく捉えるのではなくズームアップして眺めてみることで、歴史とは無数の人生の集合で成り立っているという当然のことに気づいたのだ。
驚かされることもたくさんあった。地域の同胞たちが独自に作成していた機関誌の話、祖国に帰る在日朝鮮人たちのための専用列車が国鉄から出ていたという話、巨大なトンネでもある団地の中に朝鮮学校があったという話…。
今では考えられないような昔話に触れ、自分が育った過程では近くにいなかった1世の気概や切実さ、必死さ、逞しさを学んだ。
・読者からの感想・反響を受けて
百物語の記事をネットにアップしたところ、関連するコミュニティのSNS上で記事がシェアされて思い出話が行き交ったり、知人から「取材してくれてありがとう」といった連絡を受けた時はうれしかった。
過去の企画会議で(瑛)さんも仰っていたことなのだが、Facebookのコメントやメッセージ機能、また個々人同士の連絡を通して記事の感想や関連する他のエピソードが波及していく(たくさん語られる)ことがコミュニティにおいて大切なことなのだと思う。
・何ができて、何ができなかったか
歴史書や関連資料には書かれていない、個々の語りを残すことができたと思う。大文字の歴史(事実、あったこと)を記すことも大切だが、当時生きた人がその事柄をどう見て、どのように感じたかといった言葉を豊富に残しておくことで、専門家だけではない、たくさんの一般の人(自分のように歴史に深い関心が持てない、苦手意識があるような人)にも関心を持ってもらうことができるのではないかと感じた。
また、各朝鮮学校の草創期や発展期に活動した方々に、いま改めて話を聞くことで、意図せず朝鮮学校の存在意義や朝鮮学校という場が持つ力などに関する新しい(あるいは新鮮に感じられる)言葉や解釈が浮かび上がってくるというような場面もあり、その点も貴重な経験だと感じた。
一方、難しさを感じる取材もあった。特に「解放後の国語教科書」(2019年1、2月号)について取材した回は、当時を知る証言者に出会えない、資料が限られているなどして、結果的に一部の書籍の記述をなぞるような記事になってしまった。自身の力不足、取材不足を感じ、歴史について書くことの責任の重さを痛感した。
・連載を終えての気持ち
歴史とは単なる平面の記録ではなく、時にそれを受け取る、今を生きる自分たちに作用するものだということに気がついた。自分に連なるさまざまな言葉や事柄、さらには時代ごとの構造などを多角的に学ぶことで、民族性と、そこに基づいた自分を知り育むことができると思う。
また、何かを受け継ぐための原動力になるのが歴史ではないか。どうしてこれがここにあるのか、どうして生まれたのか、どうやって保たれてきたのか、その間には何があったか―過去を知ることは動機を得ることにつながる。
そして、歴史に完成はないと思った。同じ時代の話を聞いても、その時に教員だった人と商工人だった人と女性と子どもとでは、語られることは大きく違ってくる。語り手の立場によっても、歴史の見方、語り方は微妙に変わってくるかもしれない。
できる限りたくさんの情報や語りを集めることが、その歴史に、より多くの厚みと意義を与えられるはずだ。そのためには自分たちの立ち位置をしっかり認識し、「どの立場から見た歴史を紡ぐのか」という視点を持つことも大切だと感じた。
個人的には、自分が生まれ育った北海道・日高地方における戦前・戦後の在日朝鮮人の暮らしに興味がある。先月、帰省した際にアボジからいくつか思い出話を聞いたことがきっかけだ。
日高地方にはアイヌルーツの方も多い。昔、同胞の花見でケンガリなどを鳴らして盛り上がっている場にアイヌの人々が来て一緒に踊った記憶もあるという。そうした交流もあったため、アイヌの方と結婚した同胞も一定数いらしたそうだ。
また、自分が生まれる前に亡くなってしまった1世のハラボジがどのような理由で北海道へ渡ってきたのか、そこでどんな同胞たちと出会い、解放を迎えたのか、地元にかつてあった朝鮮会館の開設になにかしら携わっていたのか…なども気になる。いつかそうした個人史から地元の歴史を紐解いていきたいと思った。(理、続く)
徳山初・中級学校管内で生活し、現在は北九州市小倉在住の1937生(85歳)
筑豊の砂場つくりを見て 1980年代に同じような事をしていた日々がよみがえりました。
帰国運動などもあって急増した生徒のために廃校になった日本学校の解体木材で2階建て9教室は出来たが運動器具等は無く 先生方と支部朝青との交流会で「バスケットポールは作れないか」との話から 運動場の北側に固定ポール、南側に移動式が出来、制作に自信を得た朝青員達は登り棒、運てい、鉄棒に砂場まで作りました。材料の鉄材は同胞スクラップ屋さんに協力を求め新品長尺パイプは寄贈して頂き、中古材はペーパーがけ、錆止め処理して使いました。
昼間は働く朝青員達は贈呈式を 夜の校庭で行いその後 学校裏の宿直室での慰労会となり大いに盛り上がった所に おりしも”良いニュース”を探しに来た中央機関紙記者が大いに関心を示し2時間を超える距離を駆けつき酒宴の中での取材は「本音」ばかりでした。
しばらくして朝青中央機関紙4面 1ページ前面の記事となりました。
すべての溶接作業は手の掛かるガス溶接で できる人はただ一人R君だけでしたので当然の如く記事の中心人物でしたが R君は別団体所属で朝青員ではありませんでしたがお姉さんが結婚して帰国しておられ何となく疎遠な感じがあったようでしたが その姉から封書がとどきます。 祖国の社労青機関紙が同封され印のつけられた個所に「朝青機関紙から転載された朝青徳山の運動器具造りの記事」がありました。
この事が後年の3階建てコンクリート校舎になるときの旧木造校舎解体と、運動場1mかさ上げ事業を朝青支部が請け負う事で数百万円節約に貢献しました。
2009年3月20日
生徒数7名で休校式を行い
1946年 旧朝鮮人初等学校開設
GHQ、日本官憲による強制閉鎖をへて
再建徳山朝鮮初、中級学校休校となります。
休校後、地域同胞の中心点が”学校”で有ったことを痛感しながら今日に至ります。
ともすれば「休校」が敗者の選択のように思われたかのような無関心ぶりは残念ですが 多くの仲間が旅立った今 このような記事にめぐりあわせ感想なりとも残せたことを喜びたいと思います。
日本人の友人に「映画ウリハッキョ」と”モンダンヨンピル”の話をしたくて資料探しをしていたら”自分のコメント”行きつき驚きました。 この春に書いたのに”読んでから納得!”
老化現象甚だし・・を再確認しました。