17年ぶりの新潟へ
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2月下旬から3月頭にかけて、3泊4日で新潟の同胞たちを訪ねた。訪問は、2006年以来17年ぶり。過疎地域の同胞コミュニティを、現地に連泊して取材するのも、数年ぶりだった。
少子化や人口流出、日本政府の対朝鮮敵視政策を温床としたネガティヴキャンペーンの影響という総聯組織や朝鮮学校、同胞社会全体が抱える共通の課題に最前線で直面している新潟の同胞社会への取材は、同胞コミュニティの維持・発展のために、イオや朝鮮新報の同胞メディアが何をできるのか、何をすべきかをあらためて考える旅となった。
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海に面する新潟県は、1年のほとんどが薄曇りで、晴れの日が少ない。滞在期間は稀に見る快晴で、春のような陽気だった。
2006年に日本政府の独自制裁により朝鮮籍船舶の入港が禁止されるまで、祖国の正面玄関口だった新潟。同胞たちは、どのようにしてここに定住するようになったのか。
祖国解放後、出稼ぎ先の佐渡島で闇米の売買で警察に捕まり、大阪に戻れなくなった父を追って家族で新潟県に移住した同胞。「米どころの新潟に行けばごはんが食べられる」と魚沼市に居を移した同胞。帰国事業が始まった頃、祖国に帰るまでの腰掛けで暮らし始めたものの、帰国船の順番を待つうちにそのまま住み着くことになった同胞。岩手県や青森県、神奈川県、東京都など各地から結婚して移住した同胞。朝鮮と日本の国際結婚を反対され、駆け落ちした両親の下、佐渡島で生まれたという同胞もいた。
滞在2日目は、新潟市から車に乗り、朝鮮東海を横目に海岸沿いを西に約130キロ、上越市の同胞たちを訪ねた。
取材地は、上越支部同胞たちの「たまり場」の居酒屋「君ちゃん」。店主で、支部副委員長としてこの地域の同胞、日本市民たちをつなげている同胞が迎えてくれた。上越支部では新年会、忘年会、定例の会議などはすべてここで行う。居酒屋が支部事務所なのだ。
上越同胞らへの取材後、副委員長お手製のアジフライとフキノトウの天ぷらをいただいた。アジは直江津港で獲れたもので、フキノトウは雪の中から顔を出した初物。いずれも地域の同胞、日本の友人からのおすそわけだそうで、手料理にも副委員長の顔の広さがうかがえた。
かつて帰国船や万景峰号が出入港した新潟市の中央埠頭へも出かけた。
私が初めて「万景峰92」号に乗ったのは、中級部3年のとき。歩行もままならないほど航海は大荒れで、元山港についたのは新潟港出航から2日後だった。
06年は船で祖国へ向かい、空路で日本に戻った。滞在期間中に、日本政府が独自制裁を発動し、航路が断たれたためだ。「家に帰れない」と泣く同級生をどうにかなだめるため、再入国の根拠を教員に確かめに、平壌ホテルの廊下を走ったことを覚えている。
最後の乗船は2018年8月。朝鮮新報平壌支局駐在中に元山へ出張した際に、元山に停泊している「万景峰92」号に乗った。現在は、元山市民が見学に訪れたり、レストランや結婚式場として利用している。
これが、「万景峰92」号にまつわる私の原体験だ。
新潟の同胞たちのそれは、本誌4月号で紹介するのでネタバレは避けるが、私の体験とは違って、極めて生活的なものだった。船の存在は、日常の一部だったのだろう。
船が止まって17年。新潟港旅客ターミナルは閉鎖され、雨漏りするのか新聞紙が床に敷き詰められていた。第1次帰国船(1959年12月)が旅立つ前に同胞たちが2キロにわたって柳の木を植えた「ボトナム通り」に建つ記念碑は、排外主義者により傷つけられ、バツ印が大きく刻まれていた。
祖国に最も近い新潟へ―、懐かしむような気持ちでここを訪れた自分を恥じた。
「멀어요, 그래도 조국은 멀어요(遠い、それでも祖国は遠いよ)」。新潟の同胞社会を支えてきた70代のある同胞の言葉だ。この港からの祖国への道を断たれた同胞たちの悲哀に、現場との隙間を突き付けられたような気がした。
新潟県の人口減少は都道府県の中でも最悪クラスのペースで進んでいる。総務省が2021年に公表した人口移動報告によると、新潟県から転出する人が転入を上回る「社会減少」(転出超過)は、広島、福島、長崎各県に次いで下から4番目だった。祖国解放後は1万余人、学校創立時(1968年)には2700人いた同胞数も現在は900人ほどだという。
過疎化・少子化に輪をかけて、02年の朝・日平壌宣言(02年)以降の朝・日関係悪化は、新潟の在日朝鮮人運動に壊滅的打撃を与えた。生徒数減少により、18年には県内唯一の新潟朝鮮初中級学校が休校。新潟の同胞社会に、過疎地域の同胞社会の縮図を見るような思いだった。
それでも、祖国を思いながら朝鮮人として生き、また、朝鮮人としてのアイデンティティを次世代につなげようとする同胞たちは確かに存在する。
新潟初中は休校中だが、日本の学校に通う児童らが週に1度、ウリマルを学んでいるほか、受験を控える中学生らが同校の元教員である朝青委員長に教わりにやってくる。毎日ではなくとも、数は少なくとも、新潟初中には在日朝鮮人の子どもたちが通っているのだ。
今回新潟の同胞たちを取材し、亡国の民の痛みに基づく強い祖国愛、民族性が、この地域の同胞社会をつなげ、現在も支えているのだと思った。それを現代に即して次世代といかに共有し、継承できるか。同胞社会の現状を伝えるにとどまらない、現状を打開する運動の知恵や方法論を提示していくことが、イオ、新報をはじめとする同胞メディアに求められていると感じた。
最後に、滞在期間に最も多く会話を交わした総聯新潟県本部の金鐘海委員長。19年ぶりの金剛山歌劇団新潟公演(2021年)、朝・日平壌宣言20周年(2022年)に際した取材など、近年朝鮮新報社から少なくない記者が新潟に派遣され、そのたびに惜しみない協力で取材をサポートしてくれている。「新報社にとり憑かれている」という皮肉にも、温かい人情が感じられた。この場を借りてお礼を伝えたい。
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私のブログ担当は今日が最後となる。3ヵ月弱の出向期間は、体感では1ヵ月くらいのとても短い時間だった。
私にとってイオは、駆け出しのころ、同胞メディアの記者として育ててもらった場所だ。学生時代からの目標だった朝鮮半島の専門記者となる前に、イオ記者として各地の同胞社会を取材して得た経験は、今も専従活動家、記者として活動する上で大切な指針となっている。いくら専門的な情報も、同胞たちの目線に合っていなければ机上の空論になってしまうからだ。
8年ぶりのイオ記者としての活動、各地の同胞たちとの触れ合い、イオ読者との疎通は、そのことをもう一度、身体性を持って再確認させてくれた。
それから、カラーの雑誌に大きく使う写真を撮る楽しみも。気の置けない編集部メンバーと、より良い雑誌作りのためにあれやこれやと議論を交わすのも、楽しかった。
3ヵ月弱のイオでの活動は総じて、今後、記者として活動していく上で、私に必要な時間だったと思える。今後は、朝鮮新報記者に復帰する。イオで学んだことを紙面に還元していきたい。
これからも日刊イオならびに月刊イオを、なおいっそうご愛読いただけますよう、どうぞよろしくお願いします。(淑)