花の色
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以前、テレビにフラワーアーティストなる方が登場し、花の生け方を実演していた。使用する花瓶は少し癖のあるマーブル模様。しかし、取り入れられている色をうまく生花とリンクさせながら、自然でおしゃれな装いにしていた。
「花瓶の色に合わせてピンクを入れてみました」
そんな解説を(へ~)と感心しつつ聞いていて、ふと、色盲の方がこの番組を見たら、自分とは感じ方や受け取るものが変わるだろうかと思った。
「色盲」という概念はずっと前から知ってはいたが、自分に問いかけられるものとして言葉が入ってきたのは数年前のことだ。イオ編集部に寄せられる読書カードの中に間違い探しコーナーへの意見が書かれていた。
自分の家族は色盲なので、「色」に関する間違いがあると分からないというものだった。
ハッとした。そうした違いを持つ人が読者の中にいるということがまったく頭になかったからだ。同時に、しっかり言葉にして教えてくれた読者の方にお礼をしたい気持ちだった。その後すぐ、間違い探しのコーナーに意見を反映することができた。
意見は送らなくても、同じように間違い探しを楽しめなかった方は何人もいたかもしれない。このコンテンツはどんな人には抵抗なく受け入れられて、どんな人はハードルを感じるのか。こちら側の理解が増える分、そのコンテンツを純粋に楽しめる人の数も増える。
知識がないと見えてこない世界がある、想像の及ばない領域があるなとつくづく思う。
映画などは特に、とあるジャンルや物事に対して一定の理解がないと伝わらない物語や機微がある。あるいは理解したつもりになっていても、それは監督が設定した、最低限だれもが楽しめる表層をなぞっているだけで、真の意図はとりこぼしているかもしれない。
自分の立場からは一歩も動かず、見えた範囲だけで分かったつもりになってしまうのは危険なことだ。強者の目線で消費すると本質を理解できないどころか、そこで描かれている当事者を踏みにじってしまうことにもつながる。
日常生活の言動でそういうことはないか。いろいろな情報を読んだり、人に会ったり、作品を鑑賞することで定期的に自身を省みている。(理)
※4月11日12時30分追記
記事公開後、読者の方より以下のようなご意見がありました。
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今回の記事で、「色盲」という用語を使っておられますが、随分前のことになりますが、当事者団体の方に、「色盲」は不適切な表現で、「色覚異常」という用語を使うべきだと指摘されたことを思い出しました。(表現方法に関して)一度、ご検討いただければ幸いです。
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文中では、当初の自身の理解程度を正確に記録しておくため、そのまま「色盲」を採用しました。今後は当事者による表現について学び、使っていきたいと思います。