被抑圧者の目
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以前、(哲)さんがインド映画「RRR」について書いていた。かくいう私も映画館で4回観るほど同作に心奪われた一人だ。感動した理由としてはやはり被抑圧者の立場から強く感情移入できたこと、そしてこれまでに観たことがないレベルのインパクトと圧倒的な芸術力が挙げられる。
映画を観終わったあと、物語の背景となるインドの歴史や作品解説について読めば読むほど、さらに共感が増していった。
また、作品を越えて、この映画に関わった人たちへの強い関心(あれだけの表現に説得力を持たせられるのは技術だけではなくその人の思想もあると感じた)、さらにはその国自体についてもっと知りたいとの気持ちから、インドに関する本を買い漁ったり図書館で借りたりした。
そんな中で気がついたことがある。
専門家や研究者以外の自称「インド好き」「インドマニア」は、かの国やそこで暮らす人々・文化を“自分たちよりも劣っており好奇なもの”という目線で見ていることが多いのだと。
随所に相手を小馬鹿にしたような表現が出てきて、途中で読むのをやめてしまった紀行本もある。実際に筆者は目にしたことを書いているのだろう。しかし、前提として自分の中に偏見や思い込みがあると、フィルタのかかった解釈しかできなくなってしまう。
またもう一つ感じたのは、歴史を知らないと知らず知らずのうちにそのような傲慢な態度になってしまいがちだということである。
よくよく考えてみると、日本の中の「朝鮮・韓国」観とも通じるものがあるなと思った。歴史を知らなければ、現在起こっていること、目に映っていることの意味を理解できない。さらには履き違えてしまう危険性もある。
その証拠に、数ある「RRR」のレビューの中で、びっくりしてしまう記述を一つ見つけた。筆者は辛口に作品を解説・評しながら、次のように書いていたのである。
近年のインド映画が愛国的なのは珍しいことではない。困ってしまうのは、中韓の反日映画と違い、質が高いことだ。
筆者のプロフィールを確認すると、インド映画や韓国映画に関する本も出しているらしいのだが、この、いとも簡単に「反日」という言葉を出してしまえる感覚に触れて一旦思考が止まってしまった。
歴史を学べば、そうたやすく「反日」という言葉を使えなくなるはずだ。
支配側から物事を見るのと被支配側から物事を見るのとでは、得られるものが全然違うんだなとつくづく実感した。
異文化や歴史について学んでいる人からすれば当然の感覚なのかもしれないが、そして自分もそうした「ものの見方」を朝鮮学校で学んできたはずだったが、「RRR」を通してインドを知ることで改めて気づくことができた。(理)