力をもつ言葉
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先週の土曜日、神奈川朝鮮中高級学校で「青商会学園」が開催された。青商会学園とは、さまざまな分野で活躍する朝鮮学校卒業生や同胞たちが講師を務め、同校生徒を対象に特別授業を実施するイベントだ。今年で7回目を迎えた。
今回、僭越ながら私も講師として参加してきた。冒頭の画像は講座で使ったスライドのタイトル部分である。
私は2013年にイオ編集部へ配属されて以降、さまざまな文章を書いてきた。同時に、社会で使われている言葉や自分が使う言葉について考える機会も数多くあったため、これまで得た考え方やものの見方をほんの少しシェアできたらと思い、発言内容を準備した。
普段あたりまえのように使っている言葉は果たして本当にその時の自分の気持ちに忠実なものなのか? よく使う言葉に込められた意味や社会での使われ方をきちんと理解しているか? 無意識に使っているその言葉に実は差別的な要素が含まれてはいないか?—
いくつかの例を出しながら、自分の言葉に自覚的であることの大切さについて話した。
その中でも特に強調したのは「北朝鮮」という言葉だ。日本のマスメディアによって悪質なイメージとセットで、毎日のように、何十年にもわたって何千回も流布され続けてきた言葉。一般の人たちの頭の中にもどんどん染みこんで、知らず知らずのうちに偏見として根づき、今もSNSをはじめとするネット上で大量に再生産されている言葉。
差別主義者でなくても、「北朝鮮」あるいは「朝鮮」に結びつく属性を持つ存在に対しては“不利益を被っても仕方ない”と感じてしまう。では具体的に何を忌避しているのか? 実際に問うと、非常に曖昧で不正確かつ感情的な回答しか返ってこない。
長年、朝鮮学校支援に携わっている佐野通夫さんは、2018年に神奈川中高で講演した際、とても印象的なお話をされていた。
講座でもこの言葉を取り上げたあと、生徒たちに以下の文章を提示した。
2017年の夏のことです。手探りでしたが、自分でツアーを予約して一人で行ってきました。朝鮮では本当にすべてが新鮮で驚きで、楽しくて美味しくて、で筋が通ってて。キュウリ一本にも筋が通ってるなって思いました。キュウリが本当においしかったんですよ(笑)。
平壌の街はとてもかわいい。建物は、緑・ピンク・水色・オレンジ・白の柔らかな色で塗られている。写真を撮るとジオラマのようでとってもキュート。また、行ったこともないのに感じるこの懐かしさ。国交が正常化したら、このフォトジェニックでノスタルジーな街に多くの日本人が訪れることだろう。
これはいずれも過去のイオに掲載されたインタビューやエッセイの一部で、訪朝した日本の方の言葉だ。とても自由でのびのびしており、表現一つひとつが面白い。正直にまっすぐに自分の言葉で語っていることが分かる。
歴史的に固定化されてきた「北朝鮮」のイメージを覆すことは容易ではないが、視点を変えればまだまだ語られていない部分、言語化されていないことがいくらでも残っていることに気がつく。それはそれで希望があるとも言えないだろうか。そんな話をした。
講座では自分が話すだけでなく、こうした話を共有した上で、生徒たちにもいろいろな言葉について考えてもらった。日常的に気になっている言葉、引っかかる言葉、もやもやする言葉…。結論がなくてもいいから、今日の話を聞いて思い浮かぶことがあれば発表してみましょうと伝え、5分間のシンキングタイム。
「“怒る”と“叱る”の違いはなんですか?」
「よく、“お客様は神様です”という言葉を聞くけど、誰がいつから使うようになったのか。お客さんの中にはクレーマーもいるし、自分はあまりいい言葉だと思わない」
「ニュースで“容疑者”という言葉が使われていると、なぜかもうその人が犯人だと決めつけてしまう風潮がある。本当の意味は“疑いがある”というだけなのに」
「身近な人が、スーパーで“国産”のお肉はいいけど“中国産”はちょっと…というようなことを言っていて、そのことに少しモヤモヤした」
「友達とお喋りしているときに、“天然”とか馬鹿”という言葉が出てくるんですが、どういう意味で言っていると思いますか?」…
生徒それぞれの素朴な疑問や発見、違和感。私自身、言われて初めて(確かにそうだな)と考えさせられることばかりで、とても刺激的な時間だった。
自分なりの視点を自覚的に持ち続け、目の前のことを自分の頭で捉えなおし、考えた末に発した言葉はしっかりと力を持つ。一人ひとりの中に、その生徒だけが持っている言葉の種が確かにあると感じられた。(理)