あの本、どこにあったっけ?
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あの本、昔買って、確か実家にあったよな…
でも、実家の本は、家を出るときに本棚から段ボールに移し替えて、どの本がどの段ボールに入っているかわからない。探せるかな…。あっ、あの本、何年か前に文庫で増補版が出てたよな。整理せず無造作に保管されている本の山の中から初版本を探し出すより、文庫版買ったほうがいいよね…。えーい、この際、ネットで注文して買っちゃおう。
そうそう、あともう一冊探してるんだ。確か、あの本は会社に置いていた本で、去年の事務所移転の際にほかの資料類といっしょに実家に段ボールで送ったはず。その段ボールの中を探せば見つかる!
あの本をもう一度読みたい、文中の一節を原典にあたって確認したい。自分の蔵書をひっかきまわして、目当ての本を探した経験は誰しもあるだろう。
前者の、ネットショッピングで入手したのが『暴力の哲学』(酒井隆史著、河出文庫)。近年、日本国内における暴力をめぐる言説に違和感を覚えていたので、この機会にあらためて読み直してみようと思った本。
後者の、実家の段ボールから救い出したのが『民衆暴力』(藤野裕子著、中公新書)。本誌で連載中の関東大震災時の朝鮮人虐殺のテーマについて編集部で意見交換の場を設けた際、「虐殺の国家責任、民衆責任」の問題が出たので、このテーマに関連する本として読み直してみようと思った。
探していたもう一冊、『羊の怒る時』(江馬修著、影書房、こちらも関東大震災時の朝鮮人虐殺がテーマの記録文学)は結局、探し出せなかった。
いくら本を持っていても、それが手元になく、整理もされておらず、必要な時にすぐにアクセスできないのであれば、意味ないよなぁ。目当ての本を探すために、実家に積まれている段ボールと格闘したり、編集部にあるロッカーの中をひっかきまわしたりするたび、同じことを思う。
電子書籍にしようかな。保管の場所もとらないし。
あるアニメの中で登場人物2人が次のようなやり取りをする。
「紙の本を買いなよ。電子書籍は味気ない」
「そういうもんですかねえ」
「本はね、ただ文字を読むんじゃない。自分の感覚を調整するためのツールでもある」
「調整?」
「調子の悪い時に本の内容が頭に入ってこないことがある。そういう時は、何が読書の邪魔をしているか考える。調子が悪い時でもスラスラと内容が入ってくる本もある。なぜそうなのか考える。精神的な調律、チューニングみたいなものかな。調律する際大事なのは、紙に指で触れている感覚や、本をペラペラめくった時、瞬間的に脳の神経を刺激するものだ」
本を読むということについて考えるとき、このセリフをよく思い出す。一理あると思う。
モノとしての本のページを捲り、モノとしての本を所有したいという欲望が自分の中には確かにある。
電子書籍は味気ない―確かにそう思う時がある。電子書籍が悪いということではない。普段、スマホやパソコンで大量の文字情報に接しているのだから。「読む」ということに関して、実物の本でも電子書籍でも本質的な違いはない、はずだ。一旦決断すれば、案外と、すんなり電子書籍に切り替えて、それを受け入れるかもしれない。(相)