“百済からの渡来文化” 邑翠文化フォーラム主催 「朝鮮半島と日本との交流史」
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邑翠文化フォーラム主催の講座「朝鮮半島と日本との交流史」第1回シリーズ「こうして人々は波濤を越えた!!」の第2回「百済からの渡来文化~文化大国の栄光~」が6月11日、名古屋国際センター大ホールで行われ、100人が参加した。
5月3日から始まった講座の第2回は、前回に続き満席。10代から80代までと参加者の年齢層も幅広く、全体の3分の2は日本市民で古代史、朝・日関係史への根強い人気をうかがわせた。
今シリーズの講師を務めるのは西谷正・九州大学名誉教授。元日本考古学協会会会長で、現在「海の道むなかた館」(福岡県宗像市)館長、朝鮮半島を中心に東アジアの古代史を比較考古学の角度から研究してきた考古学会の重鎮だ。
西谷さんは、『三国史紀』『三国遺事』などの文献資料を通じて、百済から見た日本と朝鮮半島の関わりを説明した。「百済の始祖は温祚王で、かれの父親は鄒牟あるいは朱蒙だ」という『三国史紀』の記述を紹介しながら、「百済は文明国で、日本より先んじて文字文化が発達していた」と語り、百済時代の都城、山城、古墳について説明した。
続けて文字を使った石文や、横穴式石室、乗馬の風習が百済から日本に伝来したことを伝えつつ、「横穴式石室の需要は、百済とともに北部九州がとくに早かった。それらは4世紀後半に平壌付近に出現していた横穴式石室の影響により成立したものだろう。直接のルーツは百済にある。その中の積石の初期のものは高句麗系であることが言える」とも。「この時代の日本の古墳を調査して出てくる出土品で特徴的なものが馬具だ」として、「(朝鮮半島から伝来した)馬具は、北部九州、宗像の古墳から出ている。ルーツは朝鮮半島の西南部にある」と語った。
さらに韓国の考古学の研究成果を紹介しつつ、「百済は整然とした都市計画があった。大宰府(古代、九州全域を行政下に置き、外寇の防衛と外交の衝にあたる権限を与えられた官庁)は、百済の都市計画が大和流に導入された可能性がある」と伝えた。
滋賀県東近江市の石塔寺にある三重石塔が、「百済時代の定林寺の影響を受けたのではないか。百済の男女400人が祖国を偲んで建てた」との推測や、百済時代に盛んになった仏法は、東晋(現在の中国)から伝来されたとの説を紹介しつつ、「現在の百済の領域を旅すると今の話が生きてくる。ここには仏教遺跡が多くあり、ナラカンダというインドの僧が百済の首都を経て日本、九州に渡ってきた。古代の関係は百済を通じてなされた」と豊かな人的交流に彩られた百済時代のエピソードを紹介。
「信州出身の日本人が外交官として派遣され、百済に住み着き、高級官僚の身分を与えられていた。朝鮮からの渡来人という言葉はあるが、日本から渡っていった場合、どういう表現をすればいいだろう」と問題提起した。
講義を聞いた市民からは、「古代の人的交流にならい、未来の我々の望ましい交流を期待したい」、「日本は、百済からたくさんの新しい文化を学んでいたということがわかった。今後は朝鮮と日本のもっと違う関わりについても学んでいきたい」などの感想が寄せられた。
第3回は「新羅からの渡来文化」(7月9日)、第4回は「加耶からの渡来文化」(8月6日)のテーマで行われる。(瑛)