差別を生む風土
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イオ編集部での仕事に、本の紹介記事を書くというものがある。大きく紹介する方は1000字、小さく紹介する方は200字。文字数に限らず当然その本を読んでから執筆にとりかかる。
編集部に寄贈いただいた本を紹介することもあるが、各々の関心に沿って編集部メンバー自ら本を選ぶことも少なくない。インターネットや書店で新刊情報を見ながら気になった本があれば、私は出版社の問い合わせフォームから「献本のお願い」という用件でメールを送り、先方から1冊提供いただく。
以前、小学館から出ている児童書が気になり問い合わせた時のこと。何日経っても連絡がなく、通知を見落としているのかと思い、担当編集部の電話番号を調べて電話。無事に担当者へつながって、掲載手続きの際には「著作物利用許可申請書」に記入して送付する必要があると教えてもらう。メールで届いた申請書に記入し、10分足らずで送信した。
数日待っても返信が来ず、5日後に私から確認のメール。それにも返信がなかったため翌日メールをし、夕方まで待ったが連絡がなかったので心配になり先方に電話した。
担当者がお忙しいのだろう…くらいに考えていたが、電話で言われたことはそれなりに衝撃的なものだった。以下、電話を切ったあとすぐスマホに記しておいたメモだ。一言一句正確とは言えないが、記憶している限りのニュアンスを残せたと思う。曰く、
著作物を拝見したんですけれども、韓国の情勢にお詳しいと思うので、ちょっとお問い合わせいただいた書籍は内容的に関連がない…、関連がない書評も載るというお話でしたけれども、あまり誌面のイメージにそぐわないと思いましたので…
ここで「韓国の情勢」という言葉が飛び出したこと(その認識の薄さ)、さらにそれに紐づけて判断されたことにびっくりして、「イオは『コリアにつながるすべての人へ』を謳っており、手に取ってくれる子どもも少なくない。そうした子たちにいろいろな本を紹介したいと考えているだけなのだが」などと食い下がったが曖昧な返答。
では献本はいいのでこちらが購入して読んだものを紹介してもいいのか聞くと、「『利用許可申請書』ですので、その場合も申請いただかないといけません…」との返答。呆気にとられ、仕方がないので冷静に切ろうとしたが私の声には怒りがにじんでいたと思う。
腹が立った。イオの読者は、自分たちが知る由もない段階から属性によって選別されているのか。「『韓国の情勢』に詳しい媒体を好んで読むような読者」なら、得られない情報があってもいいのか。
そんな差別をするような担当者から生まれた本なんてこちらから願い下げだ—という風に考えて自分をなだめようとしたが、恐らく決裁を下したのはその担当者ではないだろう。
このまま少し長くなるが、2019年9月、小学館が発刊している雑誌『週刊ポスト』で「韓国なんて要らない」との特集が大々的に打たれた。これに対しては当時、さまざまな識者から抗議の声が上がり、新聞や他の雑誌にも批判記事が掲載された。
また、出版社で働く有志が小学館の前で「#0905小学館のヘイト雑誌を許さないアクション」との抗議活動も行った(当時、仕事帰りにそれを知って急いで現地へ向かった)。
こうした動きがあって『週刊ポスト』は一応の「謝罪」を発表したものの、雑誌は依然、何事もなかったかのように発刊され続けている。
まったく別々の出来事だが、並べて見ると一つの問題だと感じてしまう。
中で働いている人の価値観、人権意識、関心事などは当然一律ではない。今年、朝鮮の小説『友』が小学館から発刊されたように、新しい視点や思いを持つ編集者もいるのだろう(それでも、国の正式名称ではなく、すでに日本で蔑称として用いられ、さまざまな差別事象のきっかけにもなっている「北朝鮮」という言葉を無検討につけて宣伝していたことは残念だったが)。
しかし、中の人々を覆っている大きな風土のようなものに差別意識が混じっていたら、知らず知らずのうちに影響を受けてしまうものではないだろうか。同じ空間で同じ空気を吸っていたらいつの間にかそれに順応し、普通の感覚であると錯覚してしまう。
子どもたちの情緒を育む児童書の作り手…本来、柔軟さや誠実さが求められるはずの職業の人々であっても、自分の意識を定期的に問わない限り、そうした空気から自由ではいられないのだろう。(理)