子どもをハッキョに入れない理由
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私の周囲には子育てをしている友人が少なくない。中には早くも学齢期に入る子を持つ同級生もいる。先日、たまたまその友人を含めた数人でプチ同窓会をした際、自然と子どもの就学に関する話題が出た。
「たぶんウリハッキョには送らないわ」
さらっとした意見表明に軽く驚いて「え、なんで?」と前のめりで訊いてしまった。曰く、最寄りの朝鮮学校までの距離が遠いことに加え、同級生が数人しかいないことがネックらしい。
「結局日本で生きていくし」「受験とか就活とか、なんだかんだ不便だしな」「自分も家借りるときにめちゃくちゃ苦労した」「人数少ないのも厳しいね」
子がいる/いないにかかわらず、その場にいた他のメンバーからも共感のコメントが集まる。(そうなんだ…)と軽く気が抜けた。私に子どもはいないが、送るなら朝鮮学校と当然のように考えていた。
しかし、いないからこそ細かな心配や実際の不便などが実感として浮かばない、感覚が分からない、ゆえにそんなに簡単に言えてしまうという状況もあるのかもしれない。
その同級生も夫婦共働きで、もちろん検討はしてみたがやはりいろいろと難しさがあるようだ。日本の学校へ送る同胞家庭が多い地域であるとも言っていた。環境による心理的な影響は少なくないかもしれない。
一連の話を聞きながら、距離の遠さや経済問題、人数が少ないといった状況的な制限で悩むことに関しては(そうなんだな)と感じる部分もあった。
一方で「朝鮮学校に通うと不利」とか「日本の学校よりも教育内容が劣っている」という旨の意見に対しては、そう一面的でもないことを伝えたかった。これまで取材を通して感じた、朝鮮学校に通うことで育まれるものについて話そうと試みたが、相手の意識が変わるようなことまでは言えなかった。
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その数日後、本を読んでいて(ん?)と思うことがあった。上記の問題意識と紐づけて読み始めたものではなかったが、偶然にもこのとき言葉にならなかった思いを言語化してくれているような箇所が多々見受けられたからである。
リベラルアーツとは、「自由に生きるための知性」「教養」「総合知」のこと(本書より)。検索してみると他に「生きるための力を身につける学び」といったフレーズも出てくる。
不確実性や多様性が増し、専門知を磨くだけでは解決できない問題が次々と表面化している現在、さまざまな領域の人たちがこのリベラルアーツに注目しているそうだ。
一つは障害学に関わる方々…(中略)それから二つ目に、ビジネス・産業界に関わるような人たち…それも管理職に手が届くような世代の方々が、非常に関心を持っている…三つめは、…理工系のこれから社会に出て行く人たち…それも専門を選んだ後の教養教育の問題を考えている方々です。(本書63pより)
そのように近年、必要とされているリベラルアーツが、単純に言うと朝鮮学校では無意識のうちになされているのではないか? 朝鮮学校での日常生活に組み込まれている活動や学びはリベラルアーツと言えるのではないか。
つまり、リベラルアーツはこれまで朝鮮学校が行ってきたことの意義を言語化するための補助線になる概念なのではないか—そんな思いがページを進めるごとに強くなっていった。
マイノリティの立場にいる人が果たせる役割についても直接的に書かれていた。
マイノリティたちの語りや経験の中には、リベラルアーツをアップデートする視点が含まれている(本書19pより)
非常に広い見通しの中で、偶然にも当事者研究とリベラルアーツが関連している…今、世界は不確実性を増していて、その中で高等教育はマイノリティという「他者」と出会っている…マイノリティが入ってくることがきっかけとなって、もともとマイノリティ側に蓄積されてきたノウハウを、大学の側に流し込む(本書88pより)
また、以下の部分も朝鮮学校を中心としたコミュニティを意識しながら読んでみるとどうだろう。
レジリエントな社会というのは、そこにいる人々の脆弱性に敏感な組織のことを指します。…こうした論点は、今コロナウイルスの中で非常に大きなトピックになっています。先日、国連事務総長が、…声明を発表しました。…声明では、コロナウイルスというものは私たちが住む社会がどれほど機敏であるかを測る試金石だとも言っていて、非常に印象的でした。(本書103pより)
新型コロナウイルスの感染拡大によって日本全国一斉休校要請が出された2020年3月。その後、長引く休校にいち早く対応して、日本各地の朝鮮学校関係者が一丸となり、民族教育の蓄積とネットワークを総動員した独自のオンライン授業を始めた。
朝鮮学校が持っている力、現在やっていること、その柔軟性の高さや社会的な意義に、意外と私たち自身が気づききれていないのかもしれない。そうした視点で眺め、言語化する機会がまだまだ少なかったのかもしれない。
朝鮮学校について、私たちコミュニティの中でもっと多様に語るための言葉を模索していく。そうすることでポジティブな気づきを得られる人は少なくないのではないかという実感があった。(理)
안녕하세요.
私は同胞達がウリハッョに送らない理由を受け入れる事が出来ない。
日本にも過疎化で小学校に生徒が一人、二人しかいない学校もある。
その親達は生徒数が少ないから他の学校に送っているだろうか?
生徒数を理由に送らないと言っているのはただのこじつけであるのみだ。
多くの同胞が送らないと言う本当の理由は自分が「もし日本学校に行っていたら」そう「たら・れば」の話ではないか。
ウリハッョにはまだまだ可能性を秘めている。
ハッキョはもっとその良さをアピールすべきである。
金さま、コメントコマッスムニダ。
同級生の生の声に触れると心情的にどうしても強く主張しきれない部分があったのですが(私はその夫婦に成り代われない、生活の隅々まで見れているわけではない、経済状況など分からない…etc.)、私はもし子どもがいたら純粋に朝鮮学校へ送りたいとは伝えました。それはやはり子どもには一人のチョソンサラムとして、自分が置かれている立場を理解した上でそこに基づいた知識や言葉を獲得していってほしいと思うからです。価値観が本当に多様化している中、朝鮮学校の意義をどう伝えるか、どんな言葉で伝えるか? チャンネルや表現も広げていかなくてはいけないと個人的に感じています。仰るようにまだまだ秘めている可能性があるので、伝え方もまだまだ残っているし、そこを模索していきたいと考えています。
この問題は、70年代には、始まってしまう問題なのかも知れないな!
私がまだ、歌劇団時代、韓国学校出身の旦那さんがウリハッキョ出身の奥さんの説得を、頼まれた事があって、旦那さんは、ウリハッキョの良さ、将来性を得々と語るのですが、奥さんは、子供達は、将来的にこの日本に定住するのにと!一世オルシン達が、身体を張って守って来た全てが、逆にその子弟たちによって消される危険度が、年を重ねる度に増す怖さを感じる次第です。個人的な意見ですが、この国の政策、TVの影響、共和国が賞賛してくれている敵国の荒波の中でと言うフレーズ、その意味合いを理解されなければ、呑まれるだけでしょうね!