私が子どもをハッキョへ送った理由(Aさんの場合)
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先日、近所に暮らしている方とお茶に出かけた。在日朝鮮人と結婚した日本の方で、子どもを幼稚班から高校まで朝鮮学校へ送った。
とりとめもなくいろいろな話をしていると、「これはあくまでも私の気持ちなんだけど…」と、その方(Aさんとする)がなぜ朝鮮学校を選んだか、当時の経緯や気持ちを話してくれた。
私は前のブログで、「身近な人から『朝鮮学校に子どもを送らないかもしれない』というリアルな声を聞いた」という話を書いたのだが、それを読んで考えたことをシェアしてくれたのだった。
Aさんは、夫から同胞コミュニティや朝鮮学校の話を聞いていたため、その存在は知っていたという。しかし子どもの幼稚園について考える際、なぜか選択肢からはすっぽり抜けていたそうだ。
地域にある日本の幼稚園をいくつも見学してまわる日々。Aさんは何が何やら分からなくなってしまったという。
ここにはこんなカリキュラムがあります、ここは設備が素晴らしい…など様々な「好条件」がPRされ、何を基準にしたらいいか判断する上で情報過多になってしまったのだろう。
ぐるぐると悩んでいる時期、Aさんはたまたま夫の実家へ行く。そこで夫の弟さんが「今日は朝鮮学校に(遊具用の)タイヤを埋めに行ったよ」と話すのを聞いて、「なにそれ!」と強い興味を抱いたらしい。
そこで、朝鮮学校は(自治体からの補助が少なく)財政が豊かではないから保護者や地域の同胞たちがボランティアで環境整備をしていることを知る。
この瞬間Aさんは、これまで自分が頭でっかちになっていたことに気がつき、「そんなところへ子どもを送りたい」と感じたそうだ。物や条件がすべて揃えられている幼稚園・学校がほとんどの中、「ない」ものがある方が貴重なのだと。
その「ない」を作っていく過程で子どもたちも成長していくし、なにより少しでも環境をよくしようと頑張る周りの大人たちの背中を見て自然と得られるものがあるのだと。
そんなことを純粋に、熱を込めて話すAさんを見ながら、私の方が圧倒されてしまった。単純に(すごい)と思った。
物質的なもの、目で見えるものに関心が行きがちな世の中で、「ない」ことが貴重だとの価値観を持ち、目には見えない「人の思い」がもたらす成長に期待をかける。
朝鮮学校のよさをまっすぐに信じ、見つめる強さに感動したのである。
もちろん、諸手を挙げて礼賛していたわけではない。日常のこまごまとした場面で、改善してほしいと感じることもあったそうだが、「自分は同胞ではないし部外者だから、私が言うとクレーマーっぽくなってしまう」と考え、意見を言えないこともあったと話していた。
(それに対しては、Aさんはれっきとした「朝鮮学校の保護者」であるし、まったくもって部外者ではありません…もっと胸を張ってほしいです…!と伝えた)
Aさんはこの日、何度か「本当にあくまでも自分の意見だけど」と念押ししながらも、でも今日話したことが唯一自信を持って言えることなのだと笑った。
一人ひとりの思いや経験の中に、ハッとするような言葉がたくさん秘められている。これからも「朝鮮学校に行って/送って良かった」のその先にある個々の体験や価値観をたくさん聞きたい。(理)