「殺されたのは朝鮮の人ではなく、青森県人らしい」/群馬の虐殺現場を歩いて
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月刊イオでは、4月号から「関東大震災100年 虐殺現場を歩く」と題して、これまで実際に編集部が関東各地の虐殺現場に足を運び、紹介をしてきた。
筆者は、群馬県での虐殺(8月号掲載)を調べるため、6月某日群馬へ向かった。
県下で特に被害の大きかった「藤岡事件」では、9月5日から6日にかけて藤岡警察署に「保護」されていた朝鮮人17人が、自警団をはじめ日本人群衆によって虐殺された。5日には2000人、6日には1000人の群衆が警察署に集まったとされる。
「藤岡事件を語り継ぐ移民の会」の秋山博さん(71)の案内で、藤岡事件に関連する現場を歩いたのちに、現在判明しているもうひとつの虐殺現場へと足を運ぶ。
たどりついたのは、高崎市倉賀野町にある九品寺。この墓地では自警団によって朝鮮人青年一人が虐殺された。それらの事実は、『上毛新聞』の記事、1924年3月10日付前橋地裁高崎支部判決書によって明らかにされている(山田昭次編『関東大震災虐殺裁判資料2 群馬県関係』より)。
1925年、倉賀野町民によって九品寺に建てられた碑の前についたところ、一人の老人が声をかけてきた。実際に現場を歩くことで、いわゆる「生の声」を聞くことができると少し前のめりになったが、次に発せられた言葉が、現場を歩いてきた体に重くのしかかってきた。
「この人はねぇ、朝鮮の人じゃねぇ。青森の人らしいよ」
話を聞き進めてみると、「関東大震災が起きた当時は、倉賀野に外国人すらいなかった」という。かれは「殺されたのは朝鮮の人ではなく、青森県人らしいんよ。言葉に訛りが強いから間違われたのではないかな。中には日本人や中国人でも殺された人が多くいるんよな。(中略)元々倉賀野には外国人はいなかったと子どもの時からそれを言われているんよ」と話すのだった。
前述した山田昭次さんの本に示されているように、倉賀野町で起きた事件は判決書が残っており(最高で「懲役1年6月」と非常に軽いが)、「朝鮮人ではなかった」と結論づけるには、相当の根拠がいる。
さらに、猪上輝雄著『関東大震災(1923)藤岡での朝鮮人虐殺』(同人発行、1995)には「わが家に朝鮮人をかくまった」と題し、「倉賀野の朝鮮人」に関わる証言が残っている。一部抜粋する。
「…震災直後、社会主義者に対する弾圧が加えられ、獄中死をする小野村(現藤岡市)出身の高津渡の実家でも朝鮮人の逃亡を助けている。 高津家を継い高津渡の甥高津清の妻に当たる高津和子さん(八五才)は語る。『私は、義父の亮さん(高津渡の妹の夫)から、関東大震災の時、朝鮮人をかくまった話をよく聞かされました。新町方面から逃げて来た二、三人の朝鮮人を正面の門から屋敷の中に入れ、家の中にかくまい、群衆に気づかれないよう裏門から倉賀野方面に逃がしたとのことです。』 …」
震災の状況下で被害の大きかった東京などから埼玉、群馬へと羅災民が流れてくるなか、こうして県下でも大勢が「人災」から逃れようと移動していた状況で、倉賀野町に朝鮮人が住んでいなかったとしても、殺されたのが朝鮮人ではないという証拠にはならないだろう。
現場を歩き、改めて、日本社会全体で100年前の出来事についていかに語り継がれず、行政によって真相解明が行われていなかったのか、また市民レベルでも関東大震災朝鮮人虐殺の真相に蓋をする動きがあったことを思い知らされた。
群馬県では現在、戦時下に群馬鉱山などの鉱山や軍需工場で働かされ犠牲となった朝鮮半島出身者を追悼する県立「群馬の森」公園(高崎市)の朝鮮人強制連行犠牲者追悼碑が撤去されようとしている。
歴史修正主義がはびこるなか、いかに歴史的事実を語り継ぎ、日本政府や行政に対して真相解明や責任追及を求めていくべきか。
最近は100年に際し、メディアでも追悼する市民らの動きが取り上げられるが、決して「過去の出来事」「『震災』という極限の状態で起こった出来事」ではないということを強調したい。植民地支配の下、朝鮮人への蔑視感情や差別意識が増幅され、官民が一体となり行われた虐殺を、「デマに踊らされた人びと」だけでは説明できない。
「二度と繰り返してはならない」ということが言われるが、まずもって植民地主義が克服されていない日本において、100年前の状況が連綿と続いており、在日朝鮮人に対するヘイトクライム・ヘイトスピーチが繰り返されている。
いかにこの状況を打破すべきか、考えを巡らす日々だ。(哲)