関東大震災朝鮮人虐殺から100年の日に
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今日9月1日は、関東大震災から100年を迎える日だ。このブログがアップされる頃は、埼玉県で行われる犠牲者追悼式に参加している。
東京都内の追悼式は取材してきたが、埼玉の追悼式に足を運ぶのは初めてだ。
2023年4月から本誌で始まった「関東大震災100年 虐殺現場を歩く」の連載を通じて、埼玉における虐殺の現実を知ることになった。100年前、関東7都県で朝鮮人虐殺の悲劇があったが、どの地方でも朝鮮人はむごい方法で殺された。
東京で発生した流言蜚語は、隣接の埼玉県にも同じように流れてきた。親類縁者を東京に持っている者は埼玉県に多く、地震後すぐに東京へかけつけた人たちは少なくなかった。東京の避難者は1923年9月2日未明から県下に流入。避難者は日を追って増し、3、4日にはこれが最高潮に達した。出る者、入る者あわせて一日30万人と言われている。
こうした東京との人の流れが「埼玉での流言の伝播」に影響をもたらした。「不逞鮮人が放火、暴行」の流言蜚語は、「東京からの避難路にあたる中山道・奥羽街路沿いに相次いで流入する被災地難民の口々から、直接沿道住民にもたらされ次第に周辺へと輪を広げていった。(『大宮市史 別巻一』1985年より)
「かくされていた歴史―関東大震災と埼玉の朝鮮人虐殺事件」(1987年)を出版した「関東大震災60周年朝鮮人犠牲者調査追悼事業実行委員会」の調査によると、埼玉県内では最低でも223~240人の朝鮮人が殺されたと推計している。
県内の染谷(現・さいたま市見沼区染谷)では、24歳の姜大興さんが殺害された(片柳村事件)。
事件の現場と推測される片柳コミュニティセンターは、のどかな郊外にあった。図書館や集会室が設けられた市民の憩いの場だ。
センター入口前、車道を挟んだ先になだらかな丘が見えた。現場を案内してくれた元教員の関原正裕さんは、住宅が建てられた丘を指さしながら「夜中の2時頃でした。姜大興さんはあの方向から逃げてきたと思います」。
24歳の姜さんは、逃げているところを地元の自警団員に発見され、日本刀や槍でもって重傷を負わされ、殺された。
案内してくれた関原さんは、帰り道、姜さんは故郷に家族がいたようだという話を聞かせてくれた。
「姜大興・24歳」―無辜の死を遂げた同胞と家族、親族の顔が浮かび、言いようのない悲しみが襲ってきた。(この若さで…)。
片柳コミュティセンターから5分ほど歩いた場所にある常泉寺には、当時村人たちが建てた姜さんの墓があった。墓には誰が手を下したのか、という記述はない。
村では虐殺事件は口に出してはいけないものだと伝えられてきたという。しかし…。「人を殺した」ことを「なかったこと」にはできないはずだ。
官憲が流布した流言蜚語で日本社会の「敵」とみなされ、朝鮮人であること、朝鮮語を話すことが「罪」となり、殺された同胞たちの無念を思う。
100年前の今日、約6000人が「朝鮮人」という理由で殺された。
そして殺された彼、彼女たちは謝罪の言葉ひとつ受けられずにいる。朝鮮人虐殺の悲劇を二度と繰り返さないためにも、今日の追悼の光景、人々の表情をしっかり刻みつけなければ。(瑛)