恩師と出会えたということ
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大学時代のある日、論文の執筆に行き詰まり、ついに何も書けなくなって、恩師の前で号泣してしまったことがあった。
先生はいつものようにジュースとお菓子を出してくれたあと、優しく、力強く声をかけてくれた。
아무리 아프고 힘들어도 남들앞에서 펑펑 울면 안돼.
(どんなに悔しく辛いことがあっても、人前でボロボロ泣いてはいけないよ)
非常に泣き虫だった私。涙の貯蓄量が人の2、3倍あるかのように、一度こぼれたらしばらく止まらない、それはそれは厄介だった。
社会の荒波の中でもしなやかに生きていけるようにと恩師がかけてくれた言葉は、常に心の中に留めてきた教えの一つであるが、社会に出て7年、たまに泣きたくなるあらゆる場面で、守れたり、守れなかったり。
そして今もまた必死に、守ろうとしている。
大学の4年間はもちろん、卒業した後も、今まで常に信じて見守ってくれた恩師。
先日、その恩師の訃報に接した。
◇◇
人の生は永遠ではない。
その現実をはじめて突きつけられたのは、幼稚園の頃だった。
怖かった。
人はいつか死ぬ。今、一緒にいる人と、いつかずっと会えなくなる。その日がいつ来るかもわからない。怖くて怖くてどうしようもなかった。
そしてその現実を静かに受け入れたのはここ数年のことだ。
人の命は重く、はかない。生と死はいつもどんな時も隣り合わせである。
生きているそれ自体が奇跡であり、死ぬことは決して「怖い」ことではない。
残された者として精いっぱい生きる限り、大切な亡き人は心の中に生き続け、背中を押し続けてくれるはずだ…
それでも別れの悲しみは、頭で考えるほど簡単に割り切れないし、受け入れられない。
だから辛い現実を、悲しい気持ちを、ただまっすぐに見つめてみることにした。
ともに刻んだ日々に感謝し、思い出を懐かしみながら。
◇◇
いつもお菓子を用意して待っていてくれた。
チョコレート、クッキー、あられ、グミや飴… ジュースやコーヒーもあった。
論文や作品の指導のはじまりは、いつも決まってこの言葉から。
내가 모르는 이야기를 들려주시오.
(私の知らない話を聞かせておくれ)
先生が既に知っている「ハズレ」の話題を振ると「そうじゃなくて」と言わんばかりにやんわり切り返される。
何十回、何百回と卒業後まで重ねた「私の知らない話」。楽しかった。
今思うと、恩師が教えてくれたのは、知識や文章のスキルなんかではない。
「どう生きるか」
その問いとヒントを、朝鮮文学を通して教えてくれた。
悩み多き学生時代、よく海に例えて話してくれたものだ。
앞으로 문학의 큰 바다를 가는데 뭐 개운치 않은 얼굴을 해?
(今から人生の大海原に出るのに、何を深刻に悩んでいるんだい? ※筆者の意訳です)
人を愛し、人を大切にする、優しく温かな先生だった。
いつもおっしゃっていた。願っていた。在日同胞社会において文学運動がより活発に繰り広げられることを。
先生がその姿で教えてくれた「文学は人間学である」という真理は、いつしか私の信念になり、目指す生き方になった。だから、恩師なのだ。
恩師と出会えたということ。
一生のうちで恩師と呼べる人と出会えたということは、幸せそのものだと思う。
恩師と、恩師をともに慕い、惜別の悲しみに互いに背中をさすり合える学友たちと出会えたということは、何にも代えがたいプレゼントだ。
「どう生きるか」
恩師から受け取った永遠の宿題。
例の言葉を借りるなら、私はまだ、「大海原」の波打ち際に佇んでいるといったところだろうか。
本当にたくさんの宝物を受け取った。
ゆっくりと前を向いて、何度も「宿題」を解いて、力強く進んでいきたい。
선생님, 고맙습니다.
섭섭하고 슬프지만 잘해보겠습니다.
꼭 지켜봐주십시오.
(鳳)
親子はいのちを分けているという感覚をつねに抱いている。
アボジが他界した後、私を襲った不安障害、安定剤を使いながらの怖い日々、小さな娘は、私の鏡のように、震えていた。
どうやって乗り越えたんだろう…
どう生きるかを問い続ける作業の積み重ねにつきるのかも。
その様な大変な思いの中、頑張ってこられたのですね。