物語を読む意味―『華氏451度』
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手に取ったきっかけは忘れてしまったが、少し前に『華氏451度』を読んだ。アメリカの作家、レイ・ブラッドベリによるSF小説だ。
華氏451度──この温度で書物の紙は引火し、そして燃える。451と刻印されたヘルメットをかぶり、昇火器の炎で隠匿されていた書物を焼き尽くす男たち。モンターグも自らの仕事に誇りを持つ、そうした昇火士(ファイアマン)のひとりだった。だがある晩、風変わりな少女とであってから、彼の人生は劇的に変わってゆく……本が忌むべき禁制品となった未来を舞台に、SF界きっての抒情詩人が現代文明を鋭く風刺した不朽の名作、新訳で登場!(本書あらすじ)
「未来をここまで具体的に見通すことができるのか」。読み進めながら何度も感じたことだ。1953年に書かれた言葉によって、現在が驚くほどくっきりと照らされているのである。例えば、
むかし本を気に入った人びとは、数は少ないながら、ここ、そこ、どこにでもいた。みんなが違っていてもよかった。…ところが、やがて世の中は、詮索する目、ぶつかりあう肘、ののしりあう口で込み合ってきた。…二十世紀にはいると、フィルムの速度が速くなる。本は短くなる。圧縮される。ダイジェスト、タブロイド。いっさいがっさいがギャグやあっというオチに縮められてしまう
SNSが普及して以降、情報の伝達方法が変わり、人々の価値観も一変した。他人の失敗をあげつらい、大勢で叩き、匿名で暴言を吐く。かたやショート動画やファスト映画、書籍の要約サイトなど、早く効率的に消費できるコンテンツに注目が集まり、「タイパのよさ(※)」がウリにさえなる。
※コストパフォーマンス=コスパとかけて生まれた造語。タイムパフォーマンスの意
もっといいのは、なにも教えないことだ。戦争なんてものがあることは忘れさせておけばいいんだ。たとえ政府が頭でっかちで、税金をふんだくることしか考えていない役立たずでも、国民が思い悩むような政府よりはましだ
これも今の日本の状況とぴったりと重なる。芸能人のどうでもいいゴシップを量産し、お笑い芸人をさまざまなメディアに登用して笑いを取り、深刻な内容からは目をそらす。いつの間にか税金が引き上げられ、水面下で戦争の準備が着々と進められていく。
また、すごいのは時代設定である。
ぼくらは二〇二二年以降、二度、核戦争を起こして、二度とも勝利した! それは、この国の暮らしが愉しすぎて、ほかの国のことを忘れてしまっているからか?
これを読んでいる今とごくごく近い年数が出てきてぞっとした。作者は、(だいたいこれくらいだろう)とざっくり70年後の物語にしたのではなく、過ちを繰り返す人々の愚かさから明確に未来を捉えてこれを書いたのではないだろうか。
しかし、だからこそ光る言葉も見つけられる。
われわれは、ばらばらの個人でいるときは、持てるものといえば怒りしかなかった。
いまは、なんでも見てみたい。見たものがおれのなかにはいるときには、そいつはまるでおれじゃないが、しばらくたって、はいったものがおれのなかでひとつにまとまると、それはおれになる。
人は、いつからでも学び変われるのだということ。力を合わせれば怒りを行動に変換できるのだということ。
そして終盤、作者自身の切なる希望が語られる。人間は何度も何度も戦争という愚行を繰り返しているが、過ちを記憶している人間を集め、忘却さえしなければ、いつかは止めることができるはずだという希望。
最後の1ページ、おぼつかない足取りから次第に意志を持った歩みに変わっていくモンターグ。その姿と対応する、足元を一歩一歩確かめるように綴られた文章は感動的で、何度も味わうように読んだ。
本を閉じ、見渡してみると、はるか昔に書かれたフィクションの世界に、現実の方が刻一刻と近づいていることに気づかされる。実際、世界各地で戦争が起こり、状況は日を追うごとに悪化している。物語に託した作者の希望が今や一番のフィクションになりつつあるほど。
物語を読む意味は何だろう。ふとそんなことを考える。少なくともレイ・ブラッドベリは、間違いなく物語や本が持つ力を信じてこの話を書いた。
一方で、私たちの受け取る力、思考する力は衰えてはいないか。焚書こそないが、むしろその必要もないくらい、私たち自身が本の力を無化させてしまってはいないか。
作者の願いは、70年以上が経った今でも本の中で静かに燃え続けている。(理)