沖縄取材雑記Vol.1 沖縄を歩いて
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先週、(瑛)さんのブログで明かされたが、私は今沖縄で取材をしている。22日から沖縄入りし、1週間という取材期間をありがたくもいただいた。これまでの出張経験の中で最も長いが、その分密度も濃い。本日を入れて残すところあと2日だが、より多くのことを読者に届けられるように最後まで足を動かしつづけたい。
ということで、本日からの(哲)のブログでは、沖縄での取材雑記を数回に分けて綴っていく。
「あつい」。沖縄に到着してまず感じたことはそれに尽きる。既に朝は気温が3度の時もあった東京からすると、暑すぎてかき氷を食べるほどの沖縄の気温には正直参った。沖縄の今の時期は中高生たちの修学旅行シーズンということもあってか、那覇市の国際通りは連日多くの人で賑わっている。
沖縄に行った際の定番スポットとして挙げられる国際通りだが、他にも多くの通りが存在することを今回知った。 国際通りに面してアーケード街がつながっており、「平和通り」(平和通り商店街)という呼び名がつけられている。国際通りのある意味派手な印象に対して平和通りは落ち着いた雰囲気があり、ローカルなスポットとして地元の人も多く利用していた。私がお会いした60代のタクシー運転手(今後も登場するのでAさんとしよう)によると、Aさんが幼い頃の平和通りには「衣料店が両サイドあり、その隙間に食堂が立ち並んでいた。さらに奥に進むとばあちゃんとかが作ったものを手渡しして販売していた」という。
他にも市場本通りや「日本一短い商店街」という八軒通りなどがあった。
ところで、これまで芥川賞をはじめ多くの文学賞を受賞された沖縄出身の小説家であり、活動家でもある目取真俊さんの短編小説には『平和通りと名付けられた街を歩いて』(1986年)という作品がある。平成天皇が皇太子だった頃、1983年の献血推進運動全国大会で来沖した際に「精神障害者は表に出すな」という差別意識丸出しの指示が警備当局から出された社会状況を背景に書かれている(目取真俊著『沖縄「戦後」ゼロ年』、2005年)。
Aさんが話したように、目取真さんが大学生の頃にも平和通りでは戦争で夫を亡くした多くの女性たちが露店で商売をしていた。小説に登場するウタもその一人だったが、認知症を患い平和通りや街を徘徊するようになる。
「静かに。兵隊ぬ来んど(ぴいたいぬすんど)」。
孫が探しに出て見つけるとウタはそう答え、体を震わせながら失禁した。この一つのエピソードは目取真さんが大学生の頃に親戚のおばあさんに起こったことを基に作られている。兵隊は果たして米軍兵なのか、あるいは日本兵なのか。関東大震災時の朝鮮人虐殺を生き延びた朝鮮人もそうだが、沖縄戦を生き延びてなお当時の記憶がトラウマとして深く心に刻まれている。
そのような目に見えない記憶が戦争を終えても、(いや、「戦後」を迎えられたと言えるだろうか)色濃く残り、目に見える形で戦争の跡地が多く残る沖縄。「癒しの島」として、多くの観光客がおとずれるこの沖縄は、日本の国土面積の約0.6%にしかならないにもかかわらず、ここに全国の米軍専用施設面積の約70.3%が集中している(数字は今年に県が発行した「沖縄から伝えたい。米軍基地の話。 Q&A Book」を参照)。米軍基地のみならず、日本政府が昨年に安保関連3文書を閣議決定し、「敵基地攻撃能力」の保有を明記したが、「防衛戦略」と言う名の軍備増強が着実に行われている地でもある。朝日新聞の今朝の朝刊1面に掲載された記事によると、自衛隊、海上保安庁が「有事」の際に対応すべく日本政府が防衛力強化のために全国の空港と港湾の整備を進める「公共インフラ整備」の原案では、全国の38施設中で沖縄が最も多い12施設(7空港、5港)を占める。
日本における植民地主義が沖縄で継続しているといえるような状況の中で、やはり私は現在のパレスチナにおけるイスラエルによるジェノサイドおよびそれを支える植民地主義と現在の沖縄の状況が地続きであると考える。改めて、今この時代に沖縄に来た意味を考えたうえで、残された滞在時間は短いが、この地で多くを感じ取っていきたい。
ちなみに、本誌次号にて、これまで11回連載してきたイオインタビュ―の最終回として目取真さんのインタビュー記事を掲載するので、ぜひ注目していただきたい。(哲)
本日の一枚
平和通りから少し外れた道で出会った猫。飼い猫なのか、カメラを向けてもまったくひるまず通り過ぎて行った。