「モヤモヤ」からさらなる学びへ
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前回のブログで「沖縄取材雑記Vol.1」を綴ったが、本日はお休み。(打ち切りではありません。)数日前読んだ良書を紹介したい。
タイトルは『ひろがる「日韓」のモヤモヤとわたしたち』。2021年に刊行された『「日韓」のモヤモヤと大学生のわたし』(以下、モヤモヤ本1)の続編であり、当時は大学生だった筆者たちが、社会人や大学院になって編者として登場する。
モヤモヤ本1では、K-POPや韓国ドラマは日本で見聞きされるが、日本と朝鮮半島の歴史については語られないという社会的な状況で感じられる「日韓の『モヤモヤ』」について、大学生というある意味「等身大」の視点で語られている。本書はモヤモヤ本1への応答、反響から始まるので、まだ1を読めていなくても内容をつかめるので安心だ。
本書は、モヤモヤ本1の発行から2年が経ち、現在の「日韓関係が改善した」という風潮に一石を投じている。前の(相)さんのブログ(韓国大法院判決から5年、「『解決策』では解決にならない」)でも触れられたように、現在進行形で継続している植民地支配責任について問うている。
また、「日韓」の枠組みに囚われず、在日朝鮮人、朝鮮民主主義人民共和国に話が及び、さらに複眼的な視点で歴史問題を捉えることができる。「朝鮮学校は日本の学校とたいして変わらない」「朝鮮学校の教育方法はすばらしい」ということが強調されることに対して、編者の一人はこう応答する(p137より引用)。
「日本の学校と変わらない」から, 「すばらしい」から差別に反対するのではなく, 日本側が過去の植民地支配と現在にいたるその無反省によって在日朝鮮人の民族教育権を否定してきた歴史的経緯があり, その誤った歴史・状況を克服すべきであるからこそ, 権利を認めるよう訴えるべきなのです。
在日朝鮮人が「基本的人権」として保証されるべき「教育を受ける権利」を求めて日本社会に訴えかける際に、少しでも多くの注目を得ようと「日本人と変わらない」と言わざるをえない、それを強いる社会に対する批判でもある。
さらに、モヤモヤ本1でも語られていた歴史と向き合わずにただ韓国の文化を楽しみ、少しでも日本の加害責任に話が及ぶと、とたんに「反日的」だというレッテルを張るという、そんな「文化の消費」というのは沖縄にも通ずるものである。沖縄戦で「本土決戦」のための「捨て石」とされ、現在は日米安保のため負担を不平等に強いられている状況で、自らの「癒し」のためだけに沖縄を消費する「本土」の人びと。この地で植民地主義が継続しているという認識を常に持つべきだろう。
本書は、今歴史認識の問題で「モヤモヤ」を抱いている人にとっての「入口」となるのみならず、歴史否定と「男性性」の共犯性など、さらなる学びへの一歩となる。また、在日同胞にとっても自らの歴史を改めて理解したうえで、連帯の道を探る「対話」の本となるだろう。(哲)