徐京植さんのこと
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年末年始、家族親戚と久しぶりの再会をしながらも、脳裏から離れなかったことがありました。2023年12月18日に亡くなった徐京植さん(享年72)のことです。
2023年12月29日、編集部の(哲)さんと甲府へ。
早尾貴紀さん(東京経済大学教員)が主催する、徐さんを偲ぶ会に参加するためです。
私が記者になったのは1994年のことですが、卒業する前、母親に連れられ、京植さんの兄・徐勝さんの釈放を祝う集会に参加したことがあります。
獄中で焼身自殺をはかった徐勝さんを、間近に見た驚きを今でもよく覚えています。
大きな火傷の跡に、人間がここまで自分を追い込み、闘えるだろうかと自問自答しました。
死を決して「獄中19年」を生きた闘士を前に圧倒され、言葉が出ませんでしたが、眼鏡越しに見えた徐勝さんの笑顔にホッとしたことを記憶しています。
徐勝・徐俊植きょうだいの逮捕(1971年)と長く続いた獄中生活は、在日朝鮮人にとって祖国分断が強いる「生きがたさ」を残酷に見せつけました。
徐勝、徐俊植さんの弟である徐京植さんは生前、二人の兄の釈放のため、青年時代から身を捧げた人であり、多くの著作を通じて在日朝鮮人がどう生きるべきかを示してくれた人でした。
なかでも『秤にかけてはならない』『分断を生きる 「在日」を越えて』『子どもの涙』は何度も読みかえした本です。
今回、甲府の集まりで、『朝を見ることなく 徐兄弟の母 呉己順さんの生涯』(1981年、現代教養文庫)を手にし、徐さん兄弟のオモニが亡くなったのが、59歳の若さだったことを知りました。息子二人の釈放を願い、京都から60数回にわたり韓国を行き来した人でした。
…歴史は、しばしば、平凡な庶民に思いがけず過大な荷を課す。人間らしく生きようとするだけで、避けがたくひとつの時代の核心との衝突へと人を導いてしまうことがある。そして、泣きもし笑いもしながら、淡々として歴史の課した重荷を担って生き、そのことによって、人間の価値や尊厳を証明する人びとがいる。わが国には、無数のそうした誇らしい庶民が存在している。愚直とすらいえるこの人々こそが、無気力や背信への陥穽に満ちたこの時代における、わが民族の希望の源泉なのだ。
…今はすでに骨片になってしまった母は、これからも残されて生きる私たちの希望の源泉であり続けなければならない。死してなお、残された者の生のために重荷を担い続けなければならない。囚われの者たちが解放され、民族の統一が成し遂げられ、人間たちの世がわが国に現出するその日に、母はようやくにしてその重荷を解かれるだろう。混りけのない追憶のなかに、満面の笑みをたたえて現れるだろう。もはや、何を言おうと、報われないまま逝ったあの母は戻ってこない。「いつか報われる日が」という何百回とない約束は、母にとっては、反故となってしまった。それでも、せめて死者の重荷を解くために、残された者は心を励ましてその日の方向へ歩みを進めなければならない…。
(『朝を見ることなく 徐兄弟の母 呉己順さんの生涯』から、徐京植「死者の重荷をとくために」)
朝鮮半島は1945年8月、日本の植民地支配から解放されるもつかの間、南北に分断され、以来78年もの間、人の行き来もできないまま、民族離散の悲劇は続いています。
徐さんが残した数々の文章から立ちあがる、怒りと葛藤、悲しみ、そして希望―。
分断78年を重ねた私たちは「今」をどう生きるべきか―。
徐さんが残した文章は、そのことを自問自答させてくれるのです。合掌。(瑛)