沖縄取材雑記Vol.4(最終回)受け継がれる戦争の記憶
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1週間の沖縄取材を敢行してから早4ヵ月ほどが経過した。今このブログを綴りながら「まだ続いていたの?」といった声が心なしか聞こえてきそうだが、今回の(哲)のブログでは沖縄取材雑記Vol.4(最終回)をお届けする。これまでの「沖縄取材雑記」はこちらからご覧ください。
日本では唯一地上戦が起きた沖縄に残る戦争の記憶―。滞在期間中、私は沖縄南部の戦跡を訪ねた。
糸満市摩文仁に位置する平和祈念公園は、平和祈念資料館、平和の礎、平和祈念像などがある。沖縄で「慰霊の日」とされている6月23日にはここで県主催の追悼式が執り行われ、戦争犠牲者を追悼する遺族や、平和を願う人びとが訪れる。
1995年に建立された平和の礎には現在、242046人が刻銘されている(出典:沖縄県HP「出身地別刻銘者総数」https://www.pref.okinawa.jp/heiwakichi/jinken/1008269/1008287/1008288/1008292.html)。ずらりと並べられている黒い石板の数には圧倒される。私が訪れた際にも、老夫婦とみられる人たち、家族で礎の前に立ち顔を近づけて何やら話し込む人たちなどがいて、礎の存在意義は大きいと感じる。
私も朝鮮民主主義人民共和国出身者82人の名前の前で手を合わせた。沖縄戦が始まる前から日本軍は多くの朝鮮人を軍夫、「慰安婦」として沖縄に強制動員した。そして、朝鮮半島出身者は民族差別により最も過酷な状況下に置かれていた。しかし、平和の礎には、沖縄戦で日本軍「慰安婦」として強制的に連れてこられて亡くなった女性たちの名前が1人も刻まれていない。にも関わらず、公園の公式㏋に掲載された「公園について」では「沖縄戦で亡くなられたすべての人々の氏名を刻んだ『平和の礎』」と紹介されている。
碑に刻まれた朝鮮半島出身者や県外出身者は沖縄戦の犠牲者にもかかわらず、沖縄県出身者は日本が中国で侵略戦争をしかけた「満州事変」からが対象に含まれている。また朝鮮出身者が刻銘された石の真反対側には、「連合軍」として沖縄に上陸した米英軍の戦死者が刻まれている。なんとも言えない気持ちを飲み込みながら、公園を後にした。
平和記念公園よりさらに南下したところにある「魂魄の塔」。遺骨が見つかっていない犠牲者が多く、戦後野ざらしになっていた遺骨を沖縄の人たちが集めて1946年に建立された。現在遺骨は公園の方に移動されているが、名もなき遺骨の中には朝鮮人犠牲者もいただろうということに思いを馳せながら塔の前で手を合わせた。
私が魂魄の塔を訪ねようと思ったのは、小説家・目取真俊さんの10年ぶりの短編集である『魂魄の道』を読んでからだった。表題作である「魂魄の道」では、沖縄戦で赤ん坊を殺した加害体験が何十年経っても再び蘇る記憶として残るという元兵士が登場する。記憶はそう簡単に消えないのだ。そう、たとえ「群馬の森」朝鮮人追悼碑のように物質としての碑が破壊されようとも。
南部のフィールドワークでお世話になった70代のタクシー運転手Bさんは糸満市出身だった。世間話をしていくうちに、私がフィールドワークをしていると伝えると、あるところに寄り道をしてくれた。そこは沖縄戦当時住民が逃げ込んだガマ(自然壕)だった。ガマを一通り見て、タクシーに戻ると叔父から聞いたという話をしてくれた。
「さっきのガマの隣にあったガマに叔父は逃げていた。そこは民間人が使っていたけど、日本兵が門番をしていた。要するに、沖縄語は日本語じゃないからスパイするかもしれないと監視をしていたわけよ」と続ける。「ある時、叔父は、子どもたちが水飲みたいと泣き止まないので、『水を汲んできます』とガマの前で見張りをしていた日本兵に敬礼をして出て行って、『持ってまいりました』と帰ってきた。それを見た他のおじさんが外に行けるんだ思い、門番に挨拶をせずに出ていってしまった。するとその人は帰ってくるとスパイだと疑われて日本兵に銃殺された。叔父は出稼ぎに行っていたことがあったから、日本語が話せたが、その人は話せなかった」。
記憶は継がれていく。Bさんの叔父はたまに沖縄戦の話をすると「沖縄戦で住民は、米軍ではなく、ほとんど日本軍に殺された」と言っていたそうだ。
ちょうど昨日、本日のブログを執筆しようと電車の中で「魂魄の道」を再読していたところ、電車に搭載されたモニターには、沖縄にて「オスプレイ飛行再開」というニュース(去年11月、鹿児島県の屋久島沖で墜落し、乗員8人全員が死亡したのを受けて、全世界で運行が停止していた)が流れていた。事故原因の詳細などが説明されていないと沖縄県や自治体が訴える中で、「私どもは、かなり、これまでにないレベルで詳細に報告を受けています」と言う防衛大臣は、オスプレイにどのような不具合があったのかを明らかにしない。また沖縄は「国防」のための「捨て石」とされるのか―。
『魂魄の道』の中の「神ウナギ」という作品に掲載されたことばで本稿を締めくくりたい。
「忘れてぃやならんど。」
隔週どころか、4ヵ月近くかかった連載をご愛読いただきありがとうございました。沖縄に対する文化的な親近感に加え、「抑圧された者」として在日朝鮮人が沖縄で連帯を築ける可能性を大いに感じた取材期間だった。(哲)
本日の一枚
タクシー運転手Bさんがフィールドワークをしている私を労い、缶ジュースを買ってくれた。喉は潤い、心はあたたまった