外交的なSNS(自分をメモする④)
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生活の中で感じたことや気になったことをスマホのメモアプリに記録している。メモの内容と意味についてここでも何度か紹介してきた。
気づいたら前回から1年半以上が経っていた。さて、自分はこの期間どんなことを考えていたのだろう。
感情はある程度は同じということ?
動物も困り顔をする
SNSにあふれる犬猫動画。私も人知れずそれに癒されており、毎日名前も知らないどこかしらのペットをじっと見つめている。舌をしまい忘れた猫、後ろ足で立ち上がり縦に伸びる猫、こける犬、すねる犬、バラエティ豊かだ。
基本は真顔に見える動物たちだが、時々(えっ)と思うほど人間と同じような表情を見せることがある。上にも書いた、すねる顔、ほかにも困り顔、笑顔、怒り顔。
当たり前のようなことだが、あるとき急に不思議になった。感情は等しく湧くとして、それに伴う表情筋の動きも人間と似ているのか。一緒に暮らすうちに似てくるのか。こちらに合わせているのか。
「知り合いかもしれません」
やめてくれ。なんでそんなに考え方が外交的なんだ
SNSには、まだ友達ではないユーザーアカウントを表示し、わざわざ「知り合いかもしれません」と紹介してくるシステムがある。先日もそれを目にしたのだが、会ったこともない人だった(おそらく共通の友人がいるとかだろう)ので、咄嗟に上記のようにメモした。
現実の場で、共通の友人がいるからといって「やあ、私たち知り合いかもしれませんね」と声をかけるだろうか。いや、現実の場ではないからこそそうした軽さも別にいいのかもしれないが、それにしても作りが外交的すぎる、私には合わないと気が引けた瞬間だった。
ついていく人生
例えば、混んだバスに乗っていて目的地に着いたとき、周りをかき分けて出口へ向かう人がいるとすかさず背後について降りる。自分でかき分けて進むのは嫌なのだ。他人への接触が避けられないくらい混みあう中で、どれくらいの速さで通り抜ければ「ぶつかる」にならなくて済むのだろうと毎回悩むし、それゆえ必要以上にへこへこしてしまう。
私が軟体動物なら、ぐねぐねとうねりながら絶妙に人々の隙間や足元をすり抜けていくのに。実際はこわばる身体と変な気遣いによって不必要な動きをしてしまうことすらある。
だから他人についていくのはとても楽である。「ついていく人生」というメモは大げさかもしれないが、無事にバスを降りてほっとため息をついた自分にとっては切実で偽りのない願いだったのだろう。
17時のカノン
夕方に町を歩いていると、ちょうどどこかとどこかの地区の境目にいたのか、左の方から17時を告げる「夕焼け小焼け」が流れてきた。少し遅れて右の方からも「夕焼け小焼け」が流れ始めたとき、頭に浮かんだのでメモしておいた。
妄想は好き
瞑想はどうだ
昔から妄想が好きだ。読書が習慣だったからだろうか。1冊の本を読み終える。もっとその世界に浸っていたくなる。しかし1巻完結だったり、続きが出るとしてもまたしばらく後だったりして、物理的には望む物語に触れられないとき、頭の中で続きを考えた。
眠りにつく前もだいたいは妄想していた。自分がその世界に入り込んだらどうするか、という方向に考え始めるともう止まらなかった。そのまま大人になったので、今も妄想は友達のようなものだ。いつも傍らにいる。
で、あるときふと瞑想に興味を持った。頭をいっぱいに埋めつくす妄想とは正反対の行為だ。しかし私はときどきいろんな考えで頭がいっぱいになってしまうことがあるので、適度に整理するのはいいことなのではないかと思ったのだった。
このメモのあと、図書館で瞑想の本を3冊借りて読んでみた。少しずつ実践もしている。なにか発見があればまた日刊イオで報告したい。
音楽を聴くとメタな視点で自分を見られるような気がする
映画やドラマでは主人公の何気ない日常にBGMが添えられていることが多い。だからだろうか。音楽を聴きながら外を歩いていると、恥ずかしながら何かの主人公になった自分をスクリーンで見ているような気分になることがある。
通じないなと思う時がある
家族や友人と話していて、たまに(この話は通じてないな)と感じることがある。自分の言葉足らず、説明下手ということもあるだろうし、双方の感覚の違いによって、内容は理解しているが自分はその考えがしっくりこない、ということもある。
しかし考え方や価値観が似ていることが良いことなのかというと必ずしもそうではないと思う。自分が過敏になりすぎているとき、同じく過敏になるのではなく、視点をずらしたり、大きな鈍感さで希釈してもらえる方が楽になることもある。だからこのメモは失望ではなく、助けられたという思いで記したものだ。
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メモは日々増えていく。(理)