4年前のあのとき
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西日本に出張に来ている。
特に最近は宿の確保が一苦労だ。日本国内の旅行者はもちろん、インバウンドの急回復によって部屋の空きがない。宿泊費もとてつもなく高騰している。土日や祝日はもちろん、平日であっても、駅近や交通の便がいい都市部の宿はそうそう予約を取れない。これが3泊、4泊の連泊となると、難易度はさらに上がる…
そんななか、今回は運に恵まれたのか、某大手ビジネスホテルをすんなりと確保できた。奇しくも4年前の同じ時期、絶望と希望とをいっぺんに味わった思い出深い(!?)場所だ。
◇◇
2020年4月中旬、近畿で。
比較的長期の出張だった。新型コロナウイルス感染症がじわじわと拡大しだした頃、経験したことのない禍の中でも、懸命に生きる同胞たちの姿を記録し伝えることがミッションだった。
しかし案の定、日に日に広がる感染によって、予定していた取材の案件は軒並み中止。
7日には7都府県(16日には「全国」に拡大)に緊急事態宣言が発動された。その中継をひとり、某ホテルで見ていたというわけだ。(思い出してみるとなかなか空しい…)
「終わった」
いちばん最初に抱いた正直な気持ち。取材もできなければ家にも帰れない。何も手につかなかった。
それから数十分が経ったとき、一本の電話が鳴った。主は総聯大阪府本部の活動家だった。
「今、同胞らの家々を回って、マスクと消毒液を配ることが決まった。本部に来れるか?」
熱いものがグッとこみあげてきた。あの絶望から一転、「始まった」。
それから一緒に自転車に乗って、数日にかけて、同胞たちの家々を訪ねる分会長や支部委員長らの姿を追ったのだった。
《안녕하십니까. 분회에서 왔습니다.》
(アンニョンハシムニカ。分会から来ました)
マスクも消毒液もなかなか手に入らなかった当時、やっとの思いで手に入れたマスクを2、3枚ずつ綺麗に袋に詰めて渡した分会長たち。
とある同胞は受け取ったマスクを「一生神棚に飾る」と喜んだ。「これからの流行りは『プネノマスク』やな!」と笑った。またある同胞はただひたすら、涙を流した。
決して大阪だけではない。あの絶望的なとき、日本各地の同胞コミュニティで、このような心温まるエピソードが生まれた。
現場で同胞コミュニティの潜在力、「徳」と「情」の強さを見た。
今思い返すとあの経験なくして今の自分はいないと思う。あのとき電話をくれた活動家が言ってくれた言葉は今でも自分の理念として心にしっかりと刻まれている。
「一番大切なのは、モノでもお金でもない。同胞たちに『安心』をプレゼントすること。大変なとき、読んだ人に安心感を与えられる記事を書いてくれ」
◇◇
あれから満4年。
かつてガラガラに空いて不気味だった街には人があふれ、外国人観光客で連日大賑わいになっている。各地ではコロナ禍で長らくできなかった同胞花見が行われている。
誰もが立ちすくんだあの時、一番最初に動き出したのは誰であったか。
見えないところでいつも汗を流す人たちに思いを馳せながら、取材の支度を整えている。
おっと、そろそろチェックアウトの時間だ。(鳳)