20年前のあの日
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電車通勤中、大きく鼻をすすりながら隣に座ってくる男性がいた。ティッシュを持ち合わせていないようで、しきりに手の甲で鼻をぬぐい、つらさをやりすごすように上半身を丸めてうずくまり目をつぶっている。
似ているところは一つもないのに弟を思い出した。年下に見えたからだろうか。しかし年下っぽい男性に反応していつも弟を思い出すわけではない。鼻をすする姿? 確かに弟も鼻炎持ちだが、几帳面な性格なので常にティッシュを持ち歩いている。
なんだろう。不思議な現象だったので掘り下げてみてふと気がつく。もしかすると(ああ、かわいそうに)という気持ちが、かつて弟に抱いたことのある似たような気持ちを思い起こさせたのかもしれない。
匂いを嗅ぐとそれに紐づいた過去の記憶がよみがえるような。演奏記号でそういったものがなかったか。特定のポイントにさしかかることで通過した地点に再び飛ばされる。確かダルセーニョだ。不意に湧いた感情をなぞり、弟を見つめていた過去の自分の視点にダルセーニョしたのだ。
***
私は高級部から、弟は中級部から北海道朝鮮初中高級学校へ通った。実家から距離があったので寄宿舎に入った。4歳違いの弟とは幼い頃こそよく喧嘩していたが、互いに趣味を見つける年代にもなれば気安い友人のような仲になれた。
実際に趣味も合った。読書である。とある休みの日、たまたま予定が合ったので二人で自転車に乗って少し遠くの本屋へ出かけた。
そこは超大型書店とチェーンの中古書店が隣同士に並ぶ、学生からすると都合の良すぎるスポットだった。カフェや文具店も併設されており何時間でも時間を潰せる。最新の雑誌や漫画は大型書店で、暇を埋めるための掘り出し物は中古書店でチェックする。
両店を行き来しながらあれを見、これを買い、最後に大型書店をうろついたあと、そろそろ行こうかと連れだって店を出ようとした瞬間。弟が突然、屈強な男性にカバンの紐を強く引っ張られ、店内に引きずり戻されていった。
「なんですか、やめてください!」、叫んだのは私だ。弟は驚き、されるがままになっている。「やめてください!!」。泣き叫ぶ私の声を押さえ込むような怒号が飛ぶ。「取っただろう!」。え、と思う間もなく、強引に弟のカバンが開けられ、出てきたのは数冊の漫画。
勢いに押され、ほんの一瞬でも弟に疑惑を抱いたのは事実だ。そうなの? 本当なの? しかし、漫画本は弟が隣の中古書店で買ったものだった。
不運なことに、何度も店を出入りし、商品を買いもせずぶらぶらしている様子がその男性の目には怪しく映ってしまった。本来冷静に犯行を見極めるはずの万引きGメンを錯乱させてしまったのだ。
たどたどしくも事のあらましを説明する弟の横で私はただ泣きじゃくっていた。あそこまで激しくする必要があったか。しかも間違えてやがるじゃねえか。人々が遠巻きにこちらを見ているのが嫌でも分かった。
先ほどまで自身の権力を誇示するかのように騒ぎ立てていた男性はいつの間にかすっかりおとなしくなっていた。最後に頭くらいは下げてくれたのだったか。しかし、間違えたことへの謝罪は受けても、それによって私たちが少なからぬ心の傷と強い羞恥心を負ったことに対する謝罪はなかった。
帰り道、二人の間に流れたやりきれない沈黙。いつもとっさに思うような反応ができず、終わったあとで反芻する癖のある私は、あの場で男性に土下座させて謝らせなかったことを深く悔いた。頭では何度も何度もあの男性をクソと罵り、怒鳴りつけ、公衆の面前で土下座させる絵を思い浮かべた。弟はそれくらいの謝罪を受けるのが妥当だと思った。
どうか早くこんな出来事なんて忘れてしまいますように。もう二度と嫌な目に遭いませんように。変な誤解を受けませんように。他者によって毀損されることがありませんように。悪い人に騙されませんように。怪我をしませんように。元気で楽しくやっていけますように—―。
弟に対する思い詰めたような願いは、時が経つにつれて次第に一般的な、力の抜けたものになっていった。もう20年弱も前の出来事なのだ。それでも遠心状にのびてきた願いのその中心の方へ目を凝らすと、眼前で弟が振り回されていることへの混乱、自分が何もできなかった悔しさ、(かわいそうに)というやるせない思いが今も静かに横たわっているような気がする。(理)