一面から多面へ、画一から多様へ
広告
私たちは物事の一面しか見ていないのかもしれないーー。
映画『ジョーカー』(2019)の続編・『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』が現在公開中だ。新作を映画館で観ようと前作をNetflixでおさらいした。
前作は、コメディアンを目指す心優しい青年が殺人も厭わず社会に混沌をもたらす「ジョーカー」に変貌するというストーリーで、持つものと持たざる者の差が顕著な米国社会の不満を表した作品と言えるだろう。
※ジョーカーは、DCコミックス「バットマン」シリーズに登場する悪役キャラの名だが、本シリーズは原作のストーリーとは無縁だ。
私は作品に魅力され、これまで2度見ていたが、作中の構成要素として確かに存在するテーマを認識していなかった。それは、「障がい」だ。
主人公のアーサーは突然笑い出してしまう精神障がいがあり、例えば、バスで子どもをあやそうとアーサーが戯けたところ、その子の母親に「関わるな」と言われ、笑いが止まらなくなるシーンがある。理不尽な解雇、「普通にしてろよ」という周りの視線、不条理な暴力、複合的な精神疾患が実は幼少期の虐待が原因だったことを知ることなどを経て、主人公は「ジョーカー」に変貌していく。また、主人公が「唯一優しかった人」と語り理解を示したのは、周りから普段嘲笑の対象として扱われていた何らかの障がいにより「一般的な」大人より身長が低い元同僚だった。
作中冒頭、カウンセラーと話をする主人公は、「狂っているのか私か、それとも社会か」と言う。これは荒廃する社会の特徴を際立たせるとともに、障がいの「個人モデル(医療モデル)」と「社会モデル」を意識して描かれたと想像する。
「個人モデル」は、障がいを当事者の心身によるものとし、個人的な問題として捉える一方、「社会モデル」は、障がいを社会の中に存在する障壁(設備、制度、心理など)と考える。
人種差別撤廃の世界的潮流があり、1960~70年代からは障がいのある人や関係者の努力によって障がい者の差別をなくす運動が展開されていった。その後「社会モデル」が80年に登場し、2006年に国連で採択された「障害者権利条約」にも示されている。社会の在り方を変え=障壁をなくしていき、さまざまな人びとが社会に参加できることが求められている。
映画を切り口に入ったが、これまで見えていなかった面を捉えることができたのは、この間取材したムジゲ会(障がいのある子どもを育てる同胞家族の集い)と「Tutti」(同胞障がい者サークル)のおかげだ。同胞社会にも障がいのある人びとは当然いる(実際に私の居住地域、すぐ隣にもいたのだ!)。
9月21日~23日に行われた「ムジゲ会全国交流会」の取材に参加するきっかけをくれ、「Tutti」のボランティアに私を誘ってくれた人はこう言う。
「ボランティアは相手をしっかりみて、この人はどんな人なんだろうと知りたい気持ち、大切にしたい気持ち、一人の人間に対して真摯に向き合うということが大事だ」
そうだ、社会の中でも同じだ。画一ではない、多様な存在と向き合い、同じ変革主体であることを認め、同胞社会をよりよいものへと変えていくことが求められている。一緒にこの社会で生きていくためにー。
ムジゲ会全国交流会の記事は近日発売される本誌11月号に掲載される。ぜひ読んでいただきたい記事の一つだ。(哲)