ピントをはずす
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子どもの頃から嫌な場面をよく目にする傾向があった。ヒーローショーの登場人物が猫背で舞台袖にはけていく。先生同士が児童には聞かせないよう何かしらを耳打ちし合っている。大人が別の大人にサッとお金を握らせる。
本来は気づく必要のない場面。子どもが見てはいけない場面。滞りなく物事が進む裏でこっそりやり取りされるべき場面。
わざと見に行っているわけではなく、たまたま視線をやった先にそんな光景がある。こちらが一方的に目撃してしまっただけならまだいい。タイミング悪く当事者たちと目が合ってしまった時は最悪だ。気まずくてならない。
距離が近すぎると見たくもない面が見えてしまうことがある。そんなことを、ゆりかもめ(※)に乗りながらとりとめもなく考えていた。先日、珍しく新豊洲へ行く用事があったのだった。 ※ゆりかもめ:新橋から豊洲までをつなぐ、モノレールに近い乗り物
どうしてゆりかもめで物事の距離について考えたかというと、遠く広がる景色を眺めて心安らいでいる自分に気づいたからだ。
街を歩けば「人!人!人!」とばかりに次から次へと相対する存在が眼前に現れる。私も常に猜疑心を持ち合わせて歩きたくはないが、どうしても疑いようのない悪意や負の感情を肌に感じてしまう瞬間もある。
しかし、高い場所を移動することで「人!人!人!」が「人々」にフラット化され、道路や建物といった街の一部になる。人間社会の解像度がいい具合に低くなるのだ。
近すぎるものからピントを外すと疲れがやわらぐ。物理的にも、さまざまな関係においても言えることだろう。何か具体的な懸念がなくとも、近すぎることそれ自体が疲れの原因になる人もいる。
色々なものから(回数と大きさいずれも)適度に距離を取り、力を抜くことが大切だ。ちょうどいい距離は人それぞれ。私は2~3ヵ月に一回の頻度でゆりかもめに乗ればだいぶ良い調整になるだろうなという感覚を持った。(理)